激変の後 (After the Cataclysm)

山形浩生訳

Noam Chomsky + Edward S. Herman After the Cataclysm: Postwar Indochina & The Reconstruction of Imperialist Ideology (The Political Economy of Human Rights: Volume II) (Boston Community School/Southend Press, Boston, 1979) pp. 151--158

第六章 カンボジア (Part 4)

  マクガバンの介入への呼びかけと、それに対するマスコミの反応に戻ろう。マクガバンは、カンボジア政府を乗っ取った暴漢たちによって体系的に殺された200-250万人という推計について、まったく情報源を示していない。それなのにこうした非難は、クメール・ルージュの勝利直後から広くマスコミで取りざたされてきた。またマクガバンは、政府の計画や命令で殺された人々や突発的な暴力で殺された人(明らかにこれはいささか別のカテゴリーだ)と、栄養失調や病気で死んだ人との相対的な比率を明確にしようともしない。

(p. 152 l.-1) 
マクガバンの発言は、それに関する各種のマスコミによるコメントと同様、要するにあの国の人々が大量虐殺に熱心な残虐な圧制者の下で、悲惨な生活に苦しんでいる、という主張だ。特殊な知識がなくても、ちょっと常識を使えば、この構図に少なくとも多少の疑問を感じるはずだ。そもそも、栄養失調や病気による死をカンボジア当局のせいにするのは正しいのか? たとえば、すでに述べたラオスの場合と比べてみよう。そこでは援助作業者たちが、何百何千もの死者が栄養失調と病気によって発生していて、それは帝国主義の遺産でもっと具体的には無防備な社会に対するアメリカの攻撃のせいであり、それなのにアメリカは不可欠な援助を差し控えている、と述べている。ジャーナリストや読者は、どうしたってカンボジアにおける死者数がアメリカのせいなのかと考えることだろう。この件について証拠はあるけれど、マスコミからは体系的に排除されている。あるいは、どうして一握りのキチガイによってそんなに抑圧された人々が、それを打倒すべく立ち上がらないのはなぜだろう、と思わないだろうか? 実はマクガバンがクメール・ルージュのせいだとした250万の死者数を報告し、「国際的な軍事介入を呼びかけた」公聴会ですら、国務省の反応は多少なりともまじめなレポーターであれば疑問を呼び起こすものであったはずだ。ダグラス・パイクはマクガバンに答えて、「すばやい外科手術的なカンボジア政府排除は、たぶん不可能だ」と述べた:

かれはカンボジアの独特の政府形態を指摘した。支配者グループ9人が中心にいて、共同体的な政府が「14世紀風に」各村落にあって、その中間に地域や地方政府がまったくない。(中略)「カンボジアを制圧するには、村落を制圧する必要があります――それも全部」とかれは述べた。

明らかに、かれらの支配を打倒するのにすべての村落を制圧する必要があるのなら、その中心の9人にはある程度の支持があるにちがいない。この苦境は、ほかの国務省専門家も述べている。「(国務省によって)バンコクに送られ、インドシナ・ウォッチャーとして主にカンボジアとベトナムで起きていることを調べる担当となった」というチャールズ・トワイニングは、ソラーズ共和党議員の「この殺戮政策を村落で実行している若い兵士たちに対して中央の連中はどうやって権威を確立しているのか」という質問に対し、こう答えた:

(p. 153 l.3) 
難しい質問です。カンボジアにおける政府の階層は知っています。中央、地方、セクター、地区、コミューン、村落という水準になっています。おそらく、このすべての階層で、かれらに忠実な人々がいるのでしょう。もっぱらパリで教育を受けたキチガイたちと、ほとんど意図的に無知にされていて、実際に銃を使って上の命令を実行している農場の若者たちとを実際に結びつけているものは――私は何がかれらを結びつけているのか知らないし、将来的にこんなことがいつまで続くのか、その糊がどこまで持つのか疑問に思います。

いやまったく「難しい質問」だ。 訳者コメント5

  同じような疑念が、もっと前の5月公聴会に際にもアメリカ政府に近い専門家たちからきかれた。ソラーズ共和党議員の、介入の可能性に関するコメントに対し、もとカンボジア大使館員で現在はアメリカン大学で国際関係論教授のピーター・A・プールは「わたしは国際警察は最悪の手段だと思う」と述べた。プノンペンの強制移住についてかれは「かれらは明らかにやりすぎたのです。明らかに、非常にまずいやりかたを取りました。でも人々を都市から排除するという全般的な方向性は、あの年のどこかの段階で、どんな政権でも検討して実行したことでしょう。人々を土地に戻して米の生産に返す、ということです」。さらにかれは追加して述べたのは、クメール・ルージュは「社会が崩壊して、通常の政府としての手段がない(中略)社会、政治、経済的な混沌状態のときに政権をとり」、そして国を「無知な十代の農民軍、かなり大規模で、非常に従順で、軍備も豊富できわめて柔軟で、完全に命令に従順な兵」によって運営しており、そうした兵は人々を道で行進させろという命令に対して、それに従わない者を銃殺するという形で服従するかもしれない。クメール・ルージュがどうやって「軍の階級内にそうした完全な規律の感覚を確立できたのか」という点について、プールの答えは「その質問に対する答えは知りません」。

(p. 154 l.-2) 
  別のプノンペン外交職員だったデビッド・P・チャンドラーは、現在はオーストラリアのモナシュ大学のシニア講師だが、さらにコメントを追加した。その後の進展にはほとんど影響を与えなかったが:

カンボジア人たちを殺人に駆り立てたのは何か? むかしの恨みや想像上の恨みを晴らす、というのもあったでしょうが、かなりの部分で、わたしが思うに、アメリカの軍事行動のせいだと思います。なんと言っても1969年から1973年にかけて、われわれはカンボジア地方部に 50 万トン以上の爆弾を落としたわけです。このトン数の半分以上が 1973 年に投下されました。(中略)このわずかな期間に、われわれは何千もの人々を発狂させてしまったかもしれない。革命の行程を加速したのは確実です。いくつかの証言によれば、指導層がそのイデオロギーを硬化させて疑念を表する派閥を処分したのは 1973 年から 1974 年にかけてのことです。(中略)われわれは理由もわからずにカンボジアを爆撃し、破壊した人々について注意を払いませんでした。 (中略)カンボジア人たちが人命に関心を払わないと言って非難するのは、カンボジア人たちの生命がこんなに長いことわれわれにはどうでもよかったことを考えると、色のついていないことばを使うなら、皮肉なことです。

チャンドラーのコメントは以下の理由でウィリアム・F・グードリングに否定された。

われわれの爆弾は、カンボジアのある部分やある人々だけに落とされたわけじゃない。われわれの爆弾はみんなに当たった。そしてあなたがそれを正しいと思おうとわたしがそれを正しいと思おうと、当時の軍はそれが正しいと思ったのだ。

アメリカ支援による、チモールでのインドネシアの残虐行為に対する指導的弁明者として実にふさわしい物言いだ。

  トワイニングの「難しい質問」は、国家安全保障評議会スタッフのケネス・クインによる論文で述べられている。かれはアメリカ政府のカンボジア専門家として最高の3人の一人だ。1973--1974 年にかけてカンボジアから逃亡した難民をもっぱら根拠にしつつ、かれは「少数の熱意ある勢力が、農民の広範な参加なしに社会に革命を押しつけることができたか」、いやむしろ、農民からの強い反発の中でそれを押しつけることができたか、ということを説明しようとするものだ。かれは自分の証拠がもっぱら「選ばれた難民たちに対する深いインタビュー」からくるもので、したがって明らかに否定的なものになるということは述べない。こうしたプログラムに賛成しそうな難民はかれのサンプルから除かれている。でもこの些末な点を無視して、クインは「証拠は圧倒的に、農民たちが(クメール・ルージュの)プログラムほとんどすべてに反対していたことを示している」と述べる。クインの論じているプログラムには土地改革、協同組合の創設、「すべての市民がおおむね同じ水準の豊かさを持つ」ことを保証する、富裕層から財産を押収することで階級の区別を薄くする、大学生たちに米の植え付けと刈り取りをやらせる、余剰の作物を「収穫が不十分だったほかの集団を食べさせるために」分配する、などが含まれる。かれは「(集団化の)結果として、生産は過去の個人の努力を上回るものとなり」、そして「(クメール・ルージュの)政治心理的な努力」は「あらゆる証言からみて(中略)見事な成果を」若者たちに対してあげ、その若者たちは「国と党に対する忠誠において熱心であり」、「宗教の神秘的要素を排除し」、「家族の土地で働くのをやめ、若者組織で、その若者組織の土地に対して直接労働するようになった」。かれはまた、クメール・ルージュの「成功は、かれらが村や村落レベルにおける支持者たちがほとんど、あるいはまったくいなかったことを認識すると、なおさら驚くべきものだ。(中略)ほとんどの場合、村落レベルやそれ以下のどんなレベルでも、独立した党としての存在や、その政治的支持者たちもいなかった」けれど、小規模で明らかに地元採用の軍事ユニット(内戦のさなかに)は存在していたし、「東南アジアの各国に昔から存在している」ある種の「大家族グループ」もあって、これがクメール・ルージュによって利用されて「国民が一連のまったく新しいプログラムを実施するよう強制する」ことになったのだ、と述べる。

(p. 155 7割あたり) 
そしてクインは「難しい質問」を尋ねる。「こんな小集団が、どうやってこんな多様であらゆる面にわたる試みを実施したのか?」かれの答えは「かれらは厳しく残虐な処罰によって人々を家畜化し、ちがう意見や反論を抑圧した。そして村や村落レベルで政府の出先を作り、その地域のあらゆる家族に厳しいにらみを効かせていた」というものだ。かれの検討したプログラムのいくつかは、貧農にとって魅力的だったかもしれないという可能性はまったく考察されない。それはドクトリン上の理由で排除されているのだ。

  クインは、クメール・ルージュのプログラムは新しい勢力が取って代わった 1973

(p. 156 l.4) 
この「難しい質問」には他の側面もあって、政府の専門家を当然のように困惑させた。クメール・ルージュは、実際どうやってコントロールを維持できているのだろう? ここで難民報告はいささかの疑問を呼ぶ。たとえば R. -P. パリンゴー (Paringaux) は、タイに逃げたロンノル政権の高官二人に対するインタビューを報告している。かれらは、かれらの送られた村落では、武装監視は「ほとんどなかった」と述べている。「問題があれば、村長はその地区の 10 村落の秩序を維持する 12 人のクメール・ルージュによる民兵団を呼ぶことができた」。この役人の一人は、新政権をもっと支持したのは「老人たち」――戦争中にクメール・ルージュといっしょだった者たち――だと述べている。「かれらは農民で、つらい労働にはなれていたし、わずかなもので満足していました。(訳注:おそらくここでカッコ閉じ)難しい質問の答えの一部と、民兵 12 人が 10 村落の秩序を保てた理由は、その政権が農民たちの間にある程度の支持を得ているからかもしれない。

  別の質問が生じる。もし人工の1/3が、政府――それもどういうわけかあらゆる村落をコントロールできている――を乗っ取った殺人集団によって殺されたなら、あるいはかれらの虐殺的な政策の結果として死んだなら、反乱まではいかないにしても、てっぺんのパリで教育を受けた狂信者たちのために戦うことへの抵抗は、当然期待されるだろう。でもタイとベトナムとの国境紛争に関する混乱してわかりにくい記録を見る限り、どうも圧制者からの解放を待っていたとは言い難い「意図的に無知にされてきた農民少年」たちがかなりいたことを示しているようだ。マクガバンの介入への呼びかけに対してパイクが述べたように、ベトナム人たちは 6 万人の部隊によってカンボジア政権に対して「速攻の柔道チョップ」を試してみたが、「無様に失敗した」。パイクの証言に基づいて、CBS のスーザン・スペンサーはテレビインタビューで、マクガバンに対して質問を投げかけた。マクガバンがカンボジアについて「コントロールがきかなくなり、体系的に自国民を虐殺している低開発国」と述べたとき、スペンサーは以下のようなコメントを行った。:

(p. 157 l.2) 
あなたは、圧力をかけるべきだとおっしゃいました。でも、しばしばカンボジアと交戦しているベトナム人たちによれば、カンボジア市民、少なくとも村民たちは、政府を支持しているようです。われわれが食い込むために――その支持を破るために持っているてこにはどんなものがあるのでしょうか?

スペンサーの質問はそもそもちょっと奇妙だ。もしこのほとんどが農民の社会において、村民たちがスペンサーの想定通り政府を支持しているなら、われわれがそれを「破る」ための「てこ」を探すべき権利がそもそもアメリカにあるんだろうか。そしてその支持と称するものは、大量虐殺の非難とどう折り合いがつくのだろうか。だがこうした質問は生じなかった。マクガバンは単に「証拠によればおよそ9人ほどがカンボジア政府を支配しており」、それは「全国に忠実な支持基盤も持たず」、「カンボジア政府に対して大衆の支持があるとは信じがたい」と答えただけだった。

  問題はカンボジアに関する他の報告の中でもはっきりしている。もっともこうした言い方で論じられることはほとんどないが。長年『ニューヨーカー』の極東担当だったロバート・シャプレンは、ベトナムとの国境戦において「カンボジア人たちはタフで容赦なく、ためらわない戦士たちであることが証明された」と述べている。『クリスチャン・サイエンス・モニター』の東南アジア記者は、「ベトナムのほうが面積も経済も軍事力も上なのに、1月の撤退に終わったベトナム侵略の技術的な『勝者』はカンボジアだったようだ。(中略)実は、ベトナムの国境を越えたカンボジアの攻撃は、あるアナリストによれば『かつてなく激しい』。(中略)ベトナムはカンボジアの抵抗の強さを甘く見ていたようだ、と何人かのアナリストは述べている」。タイと継続中の抗争も、似たような奇妙さを浮き彫りにしている。事実がどうあれ――そして事実も明らかとは言い難い――カンボジア軍は踏ん張り続け、アメリカのアナリストたちはベトナムが軍事的に圧倒的に有利であるにもかかわらず「ハノイがカンボジアをつぶせるかどうかについて疑問の声を挙げている」ほどで、その理由は「カンボジア地上軍の明らかに優れた志気といった要因など」だと言う。

  こうした事実については多くの説明が示されており、これは最低でも征服者に踏みつけられて苦悶する国民という非難について、疑問を呼び起こすはずだ。

  ウィリアム・バックリーは、この困難をなぞめいたアジア精神に頼ってこじつけようとする。アジア精神とは、「西欧の経験とはまったく異質なほど」拡大したナショナリズム、だとのこと。ポンショーの議論では「古いヒンズーの核は、権威を神の化身と見なしていたが、その芯がクメール人の中にはまだ強い。(中略)『カンボジア人たちはルールにこだわる』クメール人たちは未だに、われわれからすると宿命論や受動性にしか見えない敬意をもって権威を敬うが、それが権力の座にある者の能力への根底的な信頼を生み出す。(中略)(革命の)根底にあるイデオロギーはよそからきたかもしれないが、使われた手法はカンボジア的な特性をあらゆる面で示している」と論じ、クメール文化のおかげで当局は「恐怖とウソを使って地方部を」支配できるが「マルクス主義の影響の下で、クメール人たちは突然批判的な目を開くかもしれない」と述べている。「クメール革命の過激さの別の理由は、クメール的な論法にある。これはデカルト的な精神にはわけがわからないものだ。クメールは累積や重ね合わせを通じて敷こうするが、己自身の内部論理にしっかりと従う」。そしてこれはどうやら「デカルト的」な論理を理解できないものらしい。

  非専門家は、政府の専門家たちが正当にも困惑している「難しい問題」の説明に関する説得力について疑問に思うかもしれない。このきわめて難しい質問への答えを見つけようとする各種の試みの中で、一つの可能な仮説が検討されないどころか排除されているかのようだという点は特筆に値する。つまり、クメール・ルージュとかれらの地方部の政策にはかなりの農民支持があった、という仮説だ。


Part 3 Index Part 5 訳者あとがき