激変の後 (After the Cataclysm)

山形浩生訳

Noam Chomsky + Edward S. Herman After the Cataclysm: Postwar Indochina & The Reconstruction of Imperialist Ideology (The Political Economy of Human Rights: Volume II) (Boston Community School/Southend Press, Boston, 1979) pp. 148--151

第六章 カンボジア (Part 3)

(p. 148 l.12)
 難民の報告は、戦後カンボジアほど外部世界に対して閉ざされてきた社会について、一つの不可欠な情報カテゴリーを構成している。情報伝達における第二のリンク(これはこの場合、信頼性についてある程度の独立チェックの対象となる)は、そのストーリーを送る記者などだ。かれらの信頼性を検討することは、一般に到達する材料を評価するにあたって、まちがいなくきわめて重要な事項だろう。マスコミの大報道について疑念を表明した人物は、ふつうは惨めな難民たちの証言を信じようとしないといって糾弾される。それは真実よりもずっと押し売りしやすいお話だ。その真実というのは、みんなが主に疑問視しているのは、難民の苦しみやかれらが言ったことになっている内容を報道する――そしてひょっとして濫用する――人々の信頼性なのだ、ということだ。難民の物語が誠実さのしょうめいされた報告者によって送信されるなら、それはだれも知らないような人物、または明らかに遺恨を持った人物よりも、真剣に受け取られるべきだ。「プラウダ」の記者がラオス北部でのアメリカ爆撃の恐怖を報道していたら、理性的な観察者は同じ報告が「ル・モンド」のジャック・デコルノイ (Jaques Decornoy) によって報道された場合にくらべて、それを疑わしく思うだろう。同じように、国際救済委員会 (International Rescue Comittee) 議長のレオ・チェルネ (Leo Cherne) がクメール・ルージュの暴虐について語るなら、理性ある読者はかれが長いことアメリカの暴力と圧制を正当化してきた人物であり、その惨めな物言いを人道主義の仮面でごまかそうとしてきたことを思い出すだろう――たとえばかれの、南ベトナムにおけるアメリカ爆撃の犠牲者に関するとんでもなくシニカルな記述を見よ:「最近では、ベトコン配下の地方部を逃げ出した追加の難民は70万人以上で、その逃亡行動によってかれらは、南ベトナム政府が提供したわずかな安息の地のほうを選んだわけである」

(p. 149 l. 3)  報告を伝える者の信頼性を見極めるのは、カンボジアについてだろうと、現在の帝国主義イデオロギーの現段階についてだろうと、真実をつきとめたいと思っている人物にとってきわめて重要だ。この問題を調べる方法は一つしかない。それは、引用や証拠の使い方を注意深く見ることだ。こうした検討は、自分たちがすでに真実を知っていると確信しきっている人々にとっては、無意味か無関係に思えるかもしれないし、残酷とさえ思えるかもしれない。ラクチュールはよくある感情をかれの「訂正 (Corrections)」で述べている:

 新カンボジア政府ほどの化け物じみた機関に直面した場合、われわれの中心課題は非人間的なせりふを発したのがずばりだれかを決定したり、その政権が哀れな人々を何千人殺したのか何十万人殺したのかということを正確に決めたりすることなのだろうか。ダッハウ収容所の犠牲者が10万人か50万人か、あるいはスターリンがカチンで射殺したポーランド人が1000人か1万人かを知るのは、歴史的に決定的な重要性を持つだろうか?

  あるいは、付け加えさせていただければ、ソンミ村の犠牲者たちが報告通り数百人単位か、それをも何万人単位なのか、あるいはSPEEDY EXPRESS作戦で殺された民間人の数が5000人なのか50万人なのか、100倍という数が相対的に見てあまり意味がないかを知ることも決定的な重要性を持つだろうか? もし事実がそんなにどうでもいいものなら、そもそも事実と称されるものなど初めから提示しなければいいのでは?訳者コメント4

  もしカンボジア政権が本当に、ラクチュールの信じるように最悪期のナチスに匹敵するほど化け物じみていたなら、かれのコメントも理解できるものとなるかもしれないけれど、そういう判断を支持する証拠をかれはまったく提示していないことは指摘しておくに足だろう。でも、もしもっと適切な比較が、たとえば解放後のフランスであったらどうだろう。解放後のフランスでは、カンボジアにアメリカ戦争が残した条件よりずっと厳しさの少ない条件下にあって、復讐の動機もずっと少なかったのに、ものの数ヶ月のうちに最低でも3--4万人が虐殺された。こちらが比較対象として適切なら、かなりちがった判断を下すのが正当かもしれない。これから見るように、この点においては適任の観察者たちの間でもかなり意見に幅がある。でもメディアはラクチュールの結論をひいきにして、その事実に対する単なる疑問でさえ一般に無視してきた。

(p. 150 l.-2) 
われわれは、この問題における正確さの重要性についてのラクチュールの判断には同意しない。特に現在の歴史的文脈、大量虐殺と称する主張が西側の帝国主義を糊塗し、拡張するサブファシズムのシステムの「制度化された暴力」からの注意をそらし、さらなる介入と弾圧のイデオロギー的な基盤を敷くのに使われているときには。われわれは西側プロパガンダシステムがいかに有効に、帝国のニーズに応じて証拠をねつ造し、飾り立て、演出し、歪曲し、弾圧するかを見てきた。西側の世界コミュニケーションの支配は、目下のイデオロギー要件と実に都合よくマッチする証拠を注意して評価する重要性をさらに高めるものだ。この文脈では、たとえば、カンボジアにおいて、マルクス主義的殺人者一味が体系的にラクチュール言うところの「自動大量虐殺」――「ある国民丸ごとの、革命の名における自殺、いや、もっとひどいことに、社会主義の名における自殺」――に従事しているのか、それとも最悪の残虐行為が、アメリカの爆弾によって荒廃した村から追い出され、リクルートされ、そして理由がないわけではなくかれらが自分たちの破壊とその長い弾圧の歴史の共謀者として見なした都市文明に対して復讐しようとした農民軍の手によるものだったのかは、なかなか興味深い問題となる。帝国の暴虐による未来の犠牲者たちは、民衆を無気力と盲従主義に戻して弱者の隷属化がうっとうしい国内からの妨害なしに進めらるようにするキャンペーンを手伝ったことで、われわれに感謝したりはしないだろう。特にフランスやアメリカのような国――これは第二次世界大戦後の略奪が、過去の犠牲者や潜在的な犠牲者によって本国でほどはすぐに忘れ去られない国際ならず者国の二例でしかない――事実に関してはきわめて細かく調べることが非常に重要なこととなるし、また過去の歴史に慎重に注意を払い、現状について入手できるどんな情報をも批判的な分析にかけることが非常に重要なこととなる。

  事実に対する注意は特に、1975--78年の状況下では重要な事項となった。この時期には極端で裏付けのない非難が軍事介入の支持に使われかねなかったからだ。これはすでに論じたマクガバンの発言からも――そしてもっと重要な点として、最近の歴史が示すように――本巻の序文で論じたベトナム侵略の文脈からもわかるとおり、決してどうでもいい懸念ではない。

  こうした懸念(われわれにはかなり重要に思える)とはまったく別の点として、もしそもそもカンボジアについて議論するのであれば、そこで実際に何が起きたかを理解しようと努力することは有益なはずだし、これは批判的な基準が放棄され、「事実」が正直な怒りや絶望からであってもでっちあげられるようではまったく不可能なことだ。

(p. 151 l.3) 
次にわれわれが検討する調査は、ラクチュールの判断を共有したり、事実が単なるどうでもいい面倒ごとでしかない人々、たとえばウォールストリート・ジャーナルの人々にとっては、無意味な解釈学上のお話にしか見えないだろう。後者の反応にはあえてコメントするだけ無駄だが、ラクチュールはそう簡単に無視するわけにはいかない。ただし戦後カンボジアの検討の場合には、これは大きなまちがいだと感じるし、西側プロパガンダシステムの仕組みについて――ここでのわれわれのように――検討している場合には、まったく弁護できない。

  それと関連して、コメントに値する手法面でのポイントがある。あまりに誤解されている点だ。単純に、われわれは手元の証拠を二つのカテゴリーに分けることができるだろう:(1) 何らかの独立検証を受けた証拠、(2) 信じるしかない証拠。多少なりとも真剣な人物は、カテゴリー(2)の検証不可能な報告をどれだけ信用するかを決めるにあたり、カテゴリー(1)に専念するだろう。もしいくつかの情報源が、主張がチェックできる場合にかなり信用できないことがわかったら、その情報源からくる報告でそうしたチェックを受けていないものについても、すべてそれに応じた疑念をもって眺めることになるだろう。でも大量虐殺の非難をあげる情報源では、証拠の圧倒的多数はカテゴリー(2)に入る。だからカテゴリー(1)の証拠が批判的な分析に耐えられないものでも、それが遙かにずっと深刻な(検証不可能な)非難に比べれば実にマイナーなので、大して重要ではないという発想にあやまって導かれやすい。この結論がまったく弁護できないものであることは、一瞬でも考えてみればわかるはずだ。それでも、これから見るように、それはちっとも珍しいことではないのだ。


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