山形浩生訳
(Part1より続く)
(p. 140 半ば)
ポンショーは、残虐行為が行われているという糾弾を裏付ける明白な論拠があると述べる。「10万人以上の人々の国外脱出は、それ自体が十分な疑問を引き起こす事実であり、しかも非常に大きな事実だ」。われわれとしては、この議論と同じものを使って、同じ考察が他にもあてはまることを付け加えよう。アメリカ革命(アメリカ独立戦争)の勝利者たちから逃げだそうとしたおよそ10万人の人々もまた疑問を引き起こす。特に、カンボジア人が700--800万人いたのに比べて当時のアメリカの白人人口は250万人ほどで、しかもこれがずっと穏やかな戦争の後で、外国勢力による残虐行為に相当するようなものはまったくなかったことを考えれば。訳者コメント2
戦後カンボジアについてほとんどのよく報道された情報は、難民による報告からきている――あるいはもっと正確にいえば、難民たちが言ったとされることについてのジャーナリストその他の証言からきている。こうした報告を根拠に、こうした観察者たちはカンボジアで行われている残虐行為の規模と性質について結論を引き出す。そうした結論は、マスコミや議会などに(しばしば改変されて)回覧される。たとえば、バロンとポールはかれらが難民たちからきいたと称するものについていくつか例をあげて、カンボジア政府が大虐殺に邁進していると結論づける。この結論は、様々な形でコメンテーターによって提示される。同じようにポンショーは難民報告の例を引用して、政府が「人民の暗殺」を行っていると結論づけ、中央政府によって処刑されたりその他犠牲になった人々の数について推定値を挙げる。レビューアーやその他コメンテーターは、こんどは民衆に対し、カンボジア政府が自動虐殺政策を持っていて、ナチスと同列かそれよりひどいとポンショーが示した、と伝える。伝達のリンクごとに、糾弾の中身がエスカレートする。それについてはこれから見る。
(p.141 l.11)
もちろん、事実とそれらが描かれるやり方についての真剣な調査は、いくつかの課題に取り組む必要がある。(1) 難民証言の性質、(2) 入手可能な証拠の中からのメディアによる選択,
(3) 自分たちなりの難民報告を伝えてそこから結論を引き出す人々の信頼性、(4) かれらが選んで提示した証拠にもとづいてコメンテーターたちが提供するさらなる解釈。われわれは、(3)と(4)に集中することにする。でも、(1)と(2)についてもいくつか検討をしておくべきだろう。
難民と話したことのある人々や歴史記録を検討する人々すべて、あるいは単に常識を使う人々すべてにとって言うまでもないのが、「難民たちの証言は確かに十分慎重に利用する必要がある」ということだ。これは言うまでもないことなのに、無視されるのが通例だ。たとえばニューヨークタイムズのピューリツァ賞受賞の、共産主義からの難民に関する専門家は、タイにおいて「この地方州都の警察署に置かれた、縦横 2.5 メートル、高さ 3 メートルの檻の中」にいるカンボジア難民たちをインタビューし、そこでは「9 人がむき出しの床にうずくまって」いてほとんど口をきかず、「どんよりした目つきで自分の目の前の狭い空間」を見つめていたという。そんな状況下で提供された証言を、ポンショーが適切にも推奨したように「十分慎重に」扱うべきだということに、かれはここでも他の場所でも思い至らない。メディアの寵児バロンとポールは、タイ内務省の代表者が一部は用意した難民キャンプへの訪問にもっぱら基づいていて、その代表者の「知識とアドバイスはさらに得難い導きを提供してくれた」という。このタイの役人――かれは国内安全保障の責任者で、その業務には反共警察やプロパガンダ操作も含まれる――の助けを借りてかれらがアクセスできたキャンプで、かれらは「カンボジア人たちが選んだキャンプのリーダーに近づいて、かれの仲間たちに関する知識を元に、有望な対象者と思われる難民たちの一覧を作った」――こういう真摯な真実の探求者たちにとってどの「対象者」が「有望」と思われたかは容易に想像がつく。これについては後述。このコメントを引用してポーターは「クメールキャンプのチーフは、キャンプを運営するタイの役人と密接に、かれらに従属して働いており、タイ政府の支援する反共カンボジア組織がカンボジア国内で嫌がらせと諜報活動をしている」と指摘する。キャンプとそのリーダーたちは実質的にタイのコントロールしたにあり、悲惨な様子を見せつける難民たちは、熱心な反共主義者であるタイ当局の気まぐれにさらされている。これはジャーナリストには明らかなはずで、だから用心すべきだと思うべきなのに、バロンとポールはそれをまったく無視する。かれ以外の多くの人々も。このストーリーは、十分な慎重さをもって扱うには、ひたすら好都合すぎるのだ。訳者コメント3
もっと真剣なポンショーは、タイにおける難民の扱いを描いている。かれらはキャンプに送られる前に、一週間以上を牢屋で過ごし、そこで「どんどん少なくなる食糧」を食わされ、「そとに出て仕事を探せるようにしてもらうために、なんらかの袖の下をキャンプの監視員たちに渡さなくてはならない」。かれは続ける:
かれらに希望はほとんどない。かれらは自分たちの記憶とともに暮らし、絶えず目撃した恐怖を追体験している。それぞれが自分の見たもの、聞いたものを思い返すが、その想像力とホームシックが事実を誇張してゆがめがちだ。
基本的にこれは、チャールズ・トワイニングの論点と同じだ。トワイニングは国務省が「(カンボジア難民について) まさにこの世に存在する(中略)最高の専門家」と考える人物だ。処刑が継続していると述べつつ、かれはこう言う。「国を脱出してきたばかりの難民から処刑について聞かされます。難民には、かれらが国を出てきた直後に話をきく必要があります。さもないと話が誇張されるようになります」。バロンとポールやカムにたどりつくまでにはどれほど誇張されることだろう、と読者は推定してみるがいいだろう。かれらの報告を見る限り、この問題をかれらは気にとめていない。またそうした報告に頼ってがっちりした結論を引き出す人々も、それを気にとめていない。
(p. 143 3行前)
難民へのアクセスは、おおむねタイ当局やその従属者(なんの説明もなしにバロンとポールが「選挙」と述べているのは、こうした状況下では実に奇妙だ)にコントロールされている。通訳もおそらくはこのカテゴリーに入るか、あるいは監督者たちの慈悲に生死をがかかっている難民たちにそう思われている。明らかに、これは意味ある記録を入手するのに有望でない状況だ――これとの対比として、明らかなねつ造の記録をもったブラいす報告の状況と比べてみよう。ポンショーは、十分慎重にすべきだ、という言わずもがなの点を指摘した点で例外的だ。明らかに、難民たちの報告は慎重に耳を傾けるべきではあっても、濫用の可能性は大きいし、プロパガンダ的な意図をもってそれを利用したい人々は、ほとんど制約なしにそうすることができる。
当然のことながら、難民報告の中に多くの矛盾が存在する。「May Hearings」でポーターは、チョウ・トライの例を引用する。この人物はCBSのレポーターに、クメール・ルージュ兵によって学生5人が殴り殺されるのを目撃した、と語った。1976年10月に、かれはル・モンド紙のパトリス・デビアに、自分は処刑はまったく目撃しておらず、噂をきいただけだと語った。ポーターは、かれがアラニャプラテットの難民キャンプの「クメール人チーフに選ばれた」と述べている。このキャンプでは、インタビューの多くが行われている。こうした例はたくさんある。ポーターとレトベルがどちらも頑固に主張するように、難民報告はもちろん無視してはならないけれど、ある程度の慎重さは必要だろう。明らかに、カムやバロンとポールが描いたような状況のもとで設定されたインタビューは信頼性が限られている。
アメリカで有名になり影響力を持つようになった難民の一人が、ピン・ヤタイだ。アメリカ安全保障評議会主導で開かれた記者会見で、1977年6月にタイに逃れた「カンボジアの最高の工学技師で政府の主要メンバー」と説明されたヤタイは、人々がクメール・ルージュの支配下では人肉食にまで手を出していると証言した。「ある教師は自分の妹の肉を食べ」。そして後に捕まって、見せしめとして殴り殺されたとかれは述べ、さらに病院での別の人肉食事例を挙げ、その他飢餓や残虐行為、病気のお話を語った。かれはABCテレビのジャック・アンダーソンにインタビューされ、かれのお話は大量に出回っているTVガイドでも「カンボジアのホロコーストについてのメディア報道の過少ぶりに関する記事、パトリック・ブキャナン」で特集された。後に、「ワシントンポスト」はピン・ヤタイの記者会見を報道しなかったことと、これらのグループがカンボジアの残虐行為に関する適切な報道と考えるものを提供しなかったことで、かなりの右翼からの攻撃を受けた。ル・モンドはピン・ヤタイの主張をもとにした記事を2つ掲載したが、別のカンボジア人が、かれの信頼性を攻撃して、かれがロンノル政府において、対抗諜報、暗殺、ひょっとすると麻薬輸送にまで関与し、CIAの出資を受けていたと考えられている「特別委員会」の委員だったことを非難した手紙も掲載されている。
右翼の「バンコクポスト」は確かに、ピン・ヤタイが人肉食やその他恐怖についての証言を行った記者会見について報道している。「バンコクポスト」の記事は、「タイのカンボジア難民たちは、カンボジアで人肉食が横行している報道に疑問を呈し、それが一度でも起こったかどうかさえ疑問視している」と述べている。さらに「バンコクでピン・ヤタイと長時間会話をした別のカンボジア土木エンジニア」の発言が引用され、AFPにこう伝えたという「ピン・ヤタイがアメリカで行った証言のうち、事実は40パーセントにも満たない。かれは母語で同胞の難民たちとしゃべるときには、あんなに大げさに言わなかった」。この情報は、「ワシントン・ポスト」にタイする攻撃においてAccuracy in Mediaは伝えなかったし、またピン・ヤタイの証言を広く報道した人々もこれを提示していない。
難民たちがみんな、ピン・ヤタイほど熱烈に歓迎されたわけではない。たとえば、ベトナムからカンボジアを通ってタイに抜けたベトナム人難民について「ロンドン・タイムズ」に出た記事を見てみよう。かれはタイに1976年4月に入った。かれは2ヶ月かけて、カンボジアを350マイルにわたって踏破した。かれは「きわめて高い経歴を持つ」土木技師で、フランス語、タイ語、クメール語、ラオ語と英語を話す。この難民は戦後のカンボジアでユニークな体験を持ち、「流ちょうなクメール語と現地知識のおかげでどこへ行ってもカンボジア人だと思われた」人物であり、メディアのインタビューにはうってつけの人物に思える。でも実は、「ニューヨークタイムズ」「タイム」「TVガイド」その他のアメリカメディアには一度も登場しなかった。かれがなぜ資格なしと思われたかは、かれがタイについたときのコメントではっきりする。かれはそこで、カンボジアでの虐殺の物語をきいた。
信じられませんでした。二ヶ月にわたってあの国を横断しましたが、殺害も、大量処刑も一度も見なかったし、話した人もだれもそんな話はしていませんでした。いまもそんなことが起きたとは信じません。
(p.145)
この人物、ベトナムからの中流難民で、しかるべき反共的な資格も持っている人物の観察が、難民たちがprofusionをもって語るひどい残虐行為の談話と矛盾するものではないことに注意。むしろそれは、国務省のカンボジア・ウォッチャーやその他専門家たちによる、最悪の残虐行為物語が地理的に限られていることを伝える発言と一貫しており、メディアやその主な情報源がお好みの、国が命令した大量虐殺という足並みそろった作戦という話よりもむしろ、かなりの地域的な差があるのかもしれないということを示唆している。でもこの事実こそまさに、アメリカではこの報告を黙殺するに足る理由となっている。かなり信頼できる情報源と思われるものからの、カンボジア内部についてのまれな窓という大きな意義を持つ発言であるにも関わらず。他の例はまた後述。ここでは、この例とピン・ヤタイの例とでのメディアの扱いの驚くべき差を指摘しておくにとどめる。
実は、残虐行為を回想するために選ばれた目撃者ですら、しばしばかなりの留保をつけている。たとえば、1978年4月に開かれた人権侵害に関するオスロ公聴会の目撃者の一人は、リム・ペック・クオンで、かれは自分がクメール・ルージュ政策を「よく理解している」と述べた。かれは「クメール・ルージュが労働者と貧農以外のすべての階級を殺すつもりだと指示するのは聞いたことがない」と主張した。
もっと正確に言うなら、クメール・ルージュの解釈において、階級という遺物は廃止すべきである、ということです――消滅させろということではない。かれはまた、自分の目では処刑を見たことはないと述べた。かれがクメール・ルージュの勝利の後でプノンペンにやってきたかれは、通りでたくさん死体を見たけれど、でもそれはみんな覆いがかけられ、だからそれが兵士か市民かはわからなかった。かれがヘリコプターが逃げ出す原因になったのは、自由がなかったことだ、というのをかれははっきり述べた。
メディアは、難民たちが一貫して悲惨な残虐行為の話を証言しているという印象を与えるけれど、ジャーナリストは時に、報道が実はもっと様々であることに気がついている。「トロント・グローブ&メール」のジョン・フレーザー(かれのベトナムからの報道は4章でちょっと議論した)もまたベトナムのカンボジア難民キャンプを訪問し、「大量処刑や血まみれの斬首など、残虐なクメール・ルージュの暴虐行為に関する、各種の残虐行為話を期待していた」。特に、キャンプは「大死闘」が繰り広げられた国境から50マイルしか離れていないからだ。
驚いたことに、各種の苦労話は聞いたけれど、残虐行為については、二人の男が処刑されたという伝聞しか聞かれなかった。カンボジアでの生活の話は確かに実に陰気で、残虐行為の物語はあまりに真に迫っていて疑いようがなかったけれど、それでもキャンプの者はだれ一人として実際の話はできなかった。とうとう、処刑を見たことがある人はいるのかと尋ねるしかなく、そしてしばらくして、やっと伝聞が出てきたのだった。このたった一つの事実から何か結論を引き出すつもりはないけれど、これだけたくさんの難民がいるのに、もっと情報が得られないというのは不思議なことだ。特に、そういう話はベトナムのプロパガンダにとっても便利だっただろうから。
クメール語がしゃべれる西洋人で、カンボジアの学問的な専門家であり、タイの難民キャンプを当局の監督なしで訪問した人物は、一人しか知られていない。マイケル・ヴィッカリーだ。かれは1976年8月の訪問について以下のように報告している:
わたしはクメール語をしゃべったので、難民たちにとって物珍しく、すぐに群衆を集めて、かれらが質問に答えたりお互いのばらばらの会話の中で何を言っているか聞くのは簡単なことでした。やがて明らかになったのは、難民たちの間でもカンボジアでの状況についてかなりの見解の相違が見られたということです。ある者は残虐行為の線を押し、ある者はそれを否定するか、殺害は珍しく、ごく少数の個別指導者の残虐性からきているのだ、と主張した。そして難民たちの多くは、自分たちが国を離れたのは、新政権下での厳しい労働生活が嫌いだからであって、かれら自身が死や残虐行為で脅されたからではないということを認めた。でもその程度のことは、新聞での証言をしっかり読めば すでに明らかだった。わたしがもっと興味深いと思ったのは、一人の人物と二人きりになったとき、かれは難民同士の意見の相違を指摘して、それが部外者にはこれまで気がつかれなかったのは、かれらがクメール語がわからなかったからだ、と付け加えた。かれによれば、キャンプの当局者たちはフランス語や英語のしゃべれる難民を集めて情報要員とし、訪問しにきたジャーナリストたちに公式発表を告げるようにしていたとのことだった。
ヴィッカリーの公式・私的コメントについてはまた後で検討するが、非常に価値が高く、要点をついたものである。
(p. 147 l.3)
難民の証言分析に興味を持った人間がみんな、タイ内務省がバロンとポールに提供したようなアクセスを認められるわけではない。コーネル大学のカンボジア専門家スティーブン・ヘダーは、プノンペンでジャーナリストであり、クメール語をはなせるし読め、現代カンボジアに関する記事の著者でもある――そして難民キャンプのガイド付きツアーの後でジャーナリストが引き出す標準の結論について、はっきりと疑問を表明している。かれは難民証言とプノンペンラジオ放送に基づいて戦後カンボジアの体系的調査を行うよう社会科学研究評議会とフルブライト=ヘイズプログラムから資金を得た。かれはタイ国立研究評議会の書記長 (Secretary General) から以下のような通知を受けた;「タイにおける政治的状況は、この種の研究の検討をわれわれが奨励することを薦めないものとなっております。したがいまして、タイで研究を行う意図を今でもお持ちでしたら、テーマを変えられますよう薦めるものであります」。難民たちの証言が一貫して例外なく残虐行為を与えているという印象を与える手段の一つは、有能な研究者でクメール語が流ちょうな人物、タイ当局省庁や「選挙されたキャンプ指導者」のガイドを必要としない人物が、自分で証拠を調べるのを防ぐことだ。へダーが現代カンボジアについて発表を行えば、かれの作業はその結論に賛成しない人々から「難民データを無視している」という理由で批判されるだろうとわれわれは確信している。
まとめると、いくつかの論点が指摘できる。難民報告は真剣に考慮すべきだが、慎重さを持って扱うべきだ。カンボジア政権を貶める「証拠」を集めたいと思う一新で、バロンとポールやヘンリー・カムは、かれら自身の証言が告げるように、真剣なジャーナリストならだれでもほとんど本能的であるべき自明で基本的な注意事項の遵守を怠った。その注意事項は、ポンショー、トワイニングたちもはっきり指摘強調しているものだ。さらにメディアは、どの報告を強調し、どれを無視すべきかについて独自の判断基準を持っている。難民報告を評価するには、ストーリーの選択とその取りあげ方におけるすさまじいバイアスを考慮する必要がある。特に、難民報告の一様性と称するものを根拠に残虐行為が中央の指導と計画によるものだという仮説を支持するような議論を作るのは困難だろう。難民報告には実はかなりの相違があるからだ。そうした仮説を支持するにはほかの証拠が必要だ。たとえば記録証拠など。タイ当局が独立した学問的研究を許可したがらないということは、戦後カンボジアについて最悪の絵姿を示したいというタイの明らかな関心――それは西側メディアや政府も共有する関心だ――から見て、疑問を招くものである。これらの問題についてはあとでもっと詳しく検討するけれど、難民報告の扱いをちょっと見ただけでも、ある程度の注意が必要であることは示唆されるだろう。