ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』 訳者あとがき

Valid XHTML 1.0! (ケン・スミス『誰も教えてくれない聖書の読み方』(晶文社、2001)pp. 253--275)

山形浩生

1. 総論

 本書は Ken Smith, Ken's Guide to the Bible (1995, Blast Books) の全訳だ。さらに、 これを知り合いにいろいろ見せたらみんな「おもしろいし、あたしはわかるけれど、 ふつうの人はこんなに聖書にくわしくないんじゃないかな」と言うので(みんな 一人残らずそう言うのだ。だから実際には、みんなが思っているよりも世間的な 知識レベルは高いんじゃないかと思うんだが)、ぼくが解説を ちょいと付け加えて、一応常識的に欧米人が知っている聖書のあらすじ(特に旧約)に ついては説明してある。山形なんて、信用できないというのであれば、ほかに各種の 「聖書物語」とかいうのを読んでみたり、聖書テーマの映画を見たりする手もあるだろう。 ただし、これらの多くは、かなりひどい(ときに悪質な)脚色と歪曲がなされている ことは知っておこう。

1.1. 著者について

 著者の Ken Smith は、なんだかいかにも「山田太郎」みたいなペンネームくさい名前 だけれど、これが本名なのだ。かれは別に聖書研究者でもなんでもない。もともと Roadside America の著者として有名な人だ。これは、アメリカ中を旅行して、道中に ある変なものを集めた辞典というかなんというか。変なもの、というと、たとえば アメリカ最大のはりぼての牛はどこにある、とか、ここに奇跡の泉がある、とか、 ここに変なしょぼいアトランティスをテーマにした遊園地がある、とか、ここに変な キチガイ宗教家のつくった天国の模型がある、とか。ちなみに、これにヒントを得て、 Roadside Japan を取材・刊行した都築響一が、Title という雑誌でなんと Roadside America という、中身はおろかタイトルまでそっくりいただきの企画を やっていて、ぼくはあきれたね。情けない。かつて『みんな死んじゃえ』で、 猿まねクリエータたちをあれほど罵倒していたあなたが。

  それはさておき、その人がなぜこんなものをやるようになったかというと……本人曰く、 特に理由はないそうな。単に気が向いたから。本書が終わったら、かれはまったく 別の本を書いている。一つは、世の中でいい目をみなかった人たちの記録集 Raw Deal (Blast Books)。そしてもう一つは 1950 年代アメリカの、 道徳教育映画の歴史をつづったMental Hygene (Blast Books)。後者は、 特にその映画の実例を見ながら読むと、もう爆笑というか薄ら寒いというか、最高なんだけれど。

  で、本書はどういう本かというと、まあ言ってみれば、キリスト教聖書の揚げ足取り本である。実は聖書には、こんなことも書いてある、あんなことも書いてある、みんな知らなかったでしょう、という本だ。

1.2. 背景と目的

  さてなぜこんな本が成立するのか? 一応、欧米社会はキリスト教文化ということに なっていて、聖書はもう共通の常識、ということになってはいる。ぼくが昔会った、 英文学の先生のおじいさんは、「欧米の人たちはみんな聖書をすみずみまで暗記してます」 なぁんてことを真顔で言っていて、ぼくはへー、すごーい、やっぱ肉食ってる連中は ちがうぜ、と感心していたものだ。もしそうであるなら、こんな本はまったく 存在意義を持たないであろう。がぁ。実はそんなのウソっぱちなのである。みんな、 そんなにきちんと聖書を読んでいるわけじゃない。主要キャラクターやエピソードは 知っている。さわりの部分だって知っているし、いいところはいっぱい知っている。 でも、最初から最後まで聖書を読み通した人、なんていうのはまずいない。 日曜学校とかで教会へ行く人なら知っているだろう。こういうところでは、 聖書のおいしい、こぎれいなところだけを取り出して、そこばかり何度も読ませる。 それ以外のところは、知らない人のほうが多いのだ。そもそも、ルターが聖書を 訳すまでは、ふつうの人は聖書なんか読んだことはなくて、それでも平気で キリスト教徒になっていたのだもの。

  本来、各種の聖書解説本というのは、そういう人たちにちゃんと聖書を読ませる、あるいはその内容をきちんと伝えるのが仕事のはずだ。でも、ほとんどはそうなっていない。聖書の話を、勝手に編集してSFXとドラマチックな効果音をてんこ盛りにした挙げ句に取捨選択し、自分に都合のいいところだけぐりぐり強調して書いてあるものばかり。こうした本の多くは、キリスト教徒がオルグのために書いたものであることを考えれば当然ではあるのだけれど。人は、こういう本を読んで聖書を読もうなんて思わない。どっかで聞いた耳障りのよい話が反復されているのにとりあえず安心して、それっきりだ。あるいは、「聖書の暗号」だの「死海文書の謎」だの、各種の聖書がらみのトンデモ本はあとを絶たない。それ以外のものとなると、いきなりくそむずかしい神学本にとんでしまうのだけれど、これまた脚注の脚注の脚注の……というものすごい多重ネスティングがくり広げられ、聖書そのものにはぜったいたどりつけないような本になり果てている。いや、それでも田川健三『書物としての新約聖書』なんかはめっぽうおもしろくはあるのだけれど。でも世の中にうようよしているキリスト教徒の、信仰の基礎となっているはずの聖書、世界の文句なしのナンバーワンベストセラーであるはずの書物たる聖書を、きちんと説明して読ませる本というのは、ほとんどなかった。

  だから本書は言う。聖書、読もうぜ。いいとこだけじゃなくて、ぜんぶちゃんと読もうぜ。そしてケン・スミスは、そのためにいちばん単純な方法をとる。それは聖書を買ってきて、さいしょからとにかく読む、ということだ。参考書だの解説書だの研究だのに頼ることなく、そのままストレートに読む、ということだ。その結果できあがったのが本書だ。

  たぶん日本よりはアメリカのほうが、これは深刻な話だ。アメリカでは、 キリスト教原理主義者と称する連中が、聖書の教えに帰れとか言って、自分勝手な 聖書解釈でもって、人種差別や思想差別、同性愛差別や各種検閲、排外主義を平気で 正当化しようとしている。学校で進化論を教えるのをやめさせたり(厳密には、 進化論と天地創造論を同列に扱えと要求している「だけ」なんだけれど)、 中絶クリニックを襲ったり、ひどいことを山ほどやらかしている。そういうところで 「いや、あなたたち、ほんとうに聖書を読んだの? 聖書はほんとうにあなたの主張するような価値観を奉じているの?」ときくのは大事なことなのだ。

  この本はそれをやる。聖書をほんとうに、つまみぐいするのではなくまじめに読もう、 と主張する。そして、聖書には、みんなのよく知っているおはなしだけじゃなくて、 こぉんなとんでもない話が山ほど書いてあるのだ、というのを次々に明らかにしてくれる。耳にしていた話も、実はまったくちがう意味なんだ、ということを明らかにしてくれる。そしてそれにとどまらず、「まさかこんなのウソだろう」と思わせて、人々に実際に 聖書を手に取らせて読ませてしまう、という離れ業をなしとげている。出版社の Blast Booksの連中も言っていた。「いやあ、あたしたちも、訴えられたりすると いやだってのもあったけれど、それより聖書ってこぉんなとんでもないことが書いて あったっけ、と思って聖書全部読み直してみたわよ。でも、この本に書いてあるこ とって全部この通りなのよね」。人に聖書を読ませる! マルチン・ルター以来、 そんなことをやった人間がほかにいるだろうか?

  そしてもう一つ本書のすごいところは、こいつが爆笑ものの手軽な読み物だってこと。 これはケン・スミスの地ではあるのだけれど、いやあ、聖書がここまでギャグねたになるとは、マルチン・ルターもローマ法王も思ってもみなかっただろう。本書にもあるけれど、聖書は決して読んでおもしろい本じゃない。退屈だし、特に旧約だとだれはだれの子でそれがだれを生んで、とかいう話が延々続いていたりして頭にくる。それをこれだけ 楽しくおもしろく読めるものにしてしまう、というのはなみたいていの技ではない。 読者のみなさんも、本書片手に、ぜひとも楽しく聖書を読んでいただきたい。

1.3. これはキリスト教をバカにしている!

  さて、本書が出ると、それなりに反響もあった。いちばん多かったのはもちろん、がちがちのキリスト教徒からの猛攻で、「これはキリスト教をバカにしている! 揚げ足をとってちゃかしている!」というものだった。でも、ケンはそれに対して鉄壁の返事を持っている。「だって、ここに書いてあることは、まさにその通りに聖書に書いてあるんですけど」。

  気をつけてほしいこと。本書は別に、聖書がまちがっているとか、キリスト教自体がどうのこうの、という話をしたいわけではない。いや、それは正確ではないな。ケン・スミスは、イエスの名において行われるいろんな野蛮な行為の数々はもちろん気に入っていない。さらにキリスト教教会という教団組織についても、まったく評価していない。そういう意味では、いまのキリスト教という存在については、かなりどうのこうのと言いたい ことはいろいろある。処女懐胎だの三位一体だの、イエスは神の息子かそうじゃないのかとか、教会や宗教関係者はくだらないどうでもいいこじつけにばかり関心を示している。ありゃなんとかならんのか、とケン・スミスは考えている。聖書の記述を読めば、キリスト本人が何を言っていたかはちゃんと書いてあるし、それについてケンはきわめて高い評価をしている。それをちゃんと読めばいいのに。それをいっしょうけんめいゆがめて、変なこじつけをしなくていいじゃないか、とケン・スミスは言っているわけだ。

  その意味では、ケン・スミスは、確かにいまのキリスト教を批判はしているし、バカにもしているかもしれない。でも逆に、かれこそ本来のイエスの教えをちゃんと読もうとする、ある意味でキリスト教徒の鑑、なのかもしれない。

  そして聖書の旧約部分については……いや、これはひたすらすさまじい話の連続なの だ。それは否定しようのない事実だもの。宮崎哲弥は、オウム真理教を語るときによく 「かれらの教義は殺人とテロを肯定する部分があって危険だ」という。でも、そんなことを言うなら、このユダヤ・キリスト教の教典をごらん。自己中心的なテロや虐殺、詐欺のオンパレード。こんな教義を信じている連中に比べたら、オウムなんてかわいいものではないの。宮崎哲弥的にいったら、日本中のキリシタンはただちに獄門打ち首、 踏み絵を復活させて片っ端から有珠山にほうりこまなきゃならなくなる。そのくらい すごい話だ。一貫性はないし、信賞必罰なんてかけらもない。残虐、血みどろの 妙に偏執狂的なあらぶる神さま。イザヤ・ベンダサンというインチキユダヤ教徒は、 これがユダヤ民族受難の歴史うんぬんとか言っていたけれど、ちゃんと読むと加害者側にたっているほうがずっと多いんだよねー。これを信仰しているという人が、いったい何を信仰しているのか、というのは、ちょっと興味ある話だ。いったいキリスト教徒は、 この旧約聖書の部分をどういうふうに理解しているんだろうか。

  もちろん旧約部分の記述が意味していることは一つで、たぶん最初の頃は神さまってのが、日本の神さまと同じで、祀らないとたたりをなす、おっかない存在だったってことだ。そして一貫性がないのも単に、みんなが後付でお話を作っていったからそうなるんだよね。親戚に、縁起かつぎの好きなおばさんとかがいる人なら、経験があるだろう。 最近不運が続くんですけど、なぜでしょうか? ときいてごらん。ああそれは、 きみが三年前にかくかくしかじかのことをした罰ですよ、と説明してみたり、 それらしいのが見あたらなければ、ああそれはきみの親父さんの悪行の報いなのです、 と言ってみたり。旧約聖書のほとんどは、そういうその場しのぎの思いつきをあとから まとめて、なんか一つの神さまの意思と行為ってことで押し通そうとしているので、 いろいろ無理が出てきている。それだけのことなのだけれど。

1.4. 歴史的な文脈を無視している!

  これもよくあった批判だそうで、「おまえは聖書の歴史的な文脈を無視して、字面だけ で聖書を判断している!」というのをしょっちゅう言われたそうな。

  これには二種類あったそうで、一つは一般の人からくる、「昔の話なんだから 残酷な部分は割り引いて考えてやるべきだ」というもの。そしてもう一つは、 研究者なんかからくる、「聖書の歴史的な成立を無視している」というもの。

  でも、そもそもキリスト教にせよユダヤ教にせよ(そしてその兄弟のイスラームに しても)、この聖書こそが人と神を結ぶ接点ではないの? そうやって歴史的な 文脈でそれをゆがめていいのだろうか? 

  さらに一般のキリスト教徒は、いちいち歴史的な文脈を考慮してあちこち割り引きながら聖書を読み、信仰しているんだろうか? ケンによると、こういう批判をもってくる人に対していちばん有効なのは、「じゃあここのところの虐殺をどう割り引くと、納得のいくものになるんでしょうか?」とか「ダビデになんのおとがめもないのをどう割り引くと、あなたの考える『正しい』読み方になるのでしょうか」と具体的な中身に即して きくことだそうな。確かに。

  一方の学者からの批判というのは、聖書の成立事情をベースにした批判だ。たとえば、 黙示録を書いた「ヨハネ」というのは、どうも使徒ヨハネではないらしい。 かなり後世の別のヨハネが書いたものというのが、学問的な定説だそうな。 あるいはエゼキエル書のへんてこな記述だって、後世の加筆も多いんだって。 そういう考察なしに、あれもこれも同列に扱って、エゼキエルはキXXイだ、 なんていうのはけしからん、というわけ。こうした方面に関心があれば、 まず田川健三『書物としての新約聖書』を読むか、あるいは岩波書店から 現在刊行中の、聖書の書ごとの新訳を読むといろいろ勉強になるだろう。

  でもケンはいっさいそういうことは関知しない。これは一般の人が信仰している(はずの)聖書をすなおに読んでみましょうという試みで、別に文献学的な考証をしようという 本ではないのだもの。たとえ黙示録がヨハネ以外の人による後世の創作にしても、 それにいろいろ変なことが書いてあって、それが聖書の一部とされているのは事実だ。

  そしておそろしいことに、ケン・スミスは聖書を読んでいるだけで、そういう 聖書学者たちが数世紀がかりで調べてきたようなことを平気で解読してしまう。 たとえば、各種の福音書って、処女懐胎の部分や各種の奇跡の話も含めて実は、後世の 創作なんじゃないの、とか、キリスト教団の発展成立過程とか。すごいね。

2. 聖書についてのその他の本

  さて、聖書について書かれた本は、もちろんいろいろある。が、冒頭にも述べた通り、その多くはキリスト教関係者がオルグ目的で書いた本で、本書のようにきちんと聖書を読もうとするものはほとんどない。

  それ以外のものだと、あるとすればまあ歴史的な解説本と、学問的な聖書のテキスト クリティーク(これは前節参照)は別にして、イエスを人間としてとらえ なおそうとしたと称するもの、死海文書なんかをもとにしたオカルト系の本、 そしてぜんぜんちがう方面の本がある。

2.1. 人間としてのイエス

  このカテゴリーの例としては、たとえば、前出の聖書のテキストクリティークとして抜群におもしろい(けどぶあつくて高い)『書物としての新約聖書』を 書いた田川健三が、『イエスという男』という本を書いているんだけれど、田川健三にして、聖書の実際の記述と、その通俗バージョンの伝承とがきちんと区別できていないことに、ぼくはびっくりした。たとえば「イエスが生まれた時に、東方から三人の博士が来て礼拝した、という話などは権力崇拝のにおいがする」(同書p.12)。うん、権力崇拝はおっしゃるとおりだけれど、聖書では博士は3人とは書いていない。さらに、その前後の記述からして、田川健三はその現場が例の馬小屋だと思っているようだけれど、それもちがうのは、本書を読んだ人ならわかる。

  だけどそれ以上に、この『イエスという男』でも、高尾利数『イエスとは誰か』(NHKブックス)でも、著者たちはイエスにたいしてものすごく勝手な思い込みを抱いていて、それを必死で正当化しようとする。イエスは反抗者だったはずだ、とかヒューマニストだったはずだ、とかかくかくの思想を持っていたはずだ、とか。そしてそれを正当化するようにしか聖書を読まない。都合の悪いところは後代の創作かききちがいだ。そうでなければ「イエスはこういうつもりで言ったはずだ」とか、「これを言いながらこうつぶやいたはずだ」(!!)とか、こんな状況だっただろうとか、えらくビビッドな(でも根拠レスな)状況再現なんかしてみせる。こういう本というのは、単に著者たちのある種の信仰告白でしかなくて、だからその意味で狐狸庵せんせいの『死海のほとり』と同じ(かそれよりできの悪い)創作にすぎないのだ。

  ぼくはこの手の本を読んで、キリストが身近に思えたこともなければ、キリスト教の教義が説得力を持ったこともない。書いた人が、なにか必死で自分を正当化しようとして、歪曲に歪曲を重ねている姿が見えてくるだけだ。むしろ、モンティ・パイソン『ライフ・オブ・ブライアン』を見たほうがよほどイエスを身近に感じられるだろう。

2.2. 聖書のオカルト解説本

  さらに、『死海文書の云々』とかその手の本がある。死海文書だのナグ・ハマディだのQ資料だの、なんか別の資料があってそっちこそが正しいグノーシスやらなんやらの正しいキリスト教であって、というもの。なにか隠されたものがあってそっちこそが真なり、 という意味でこれらはオカルトの本だ。いや、それはそれでいいんですけど。パズル的に読むのはそれなりにおもしろいかもしれない。けれど、それでイエスの言ったことがなにか変わるか、というとそうでもない。単にむかしの、別セクトのキリスト教徒がどうした、という話でしかない。

  さらにはそれを発展させて、実は聖書は暗号で書かれていて、死海文書を使うとその暗号が解読できて、というシーリング『イエスのミステリー』ような話になってくる と、ドロズニン『聖書の暗号』みたいなトンデモ本と五十歩百歩だ。しかもその暗号を 解読してわかること:イエスは実は神の子ではなく処女懐胎もなかった、とかイエスは 実は死んだふりをしただけだとか。半分くらいはケン・スミスがふつうに聖書を読んだ だけで見破れたことじゃないか。

  どういう資料がどう出てきても、結局イエスが共産主義的な平等社会を理想として、 しかもそれを出家のような形で教団にみんなが加わることで実現しようとしたのは 変わらないわけだ。かれの教えのコアの部分は、いまの聖書でもだいたい読み取れる。 いまのキリスト教教団のありかたに対しては、なるほどインパクトはあるかもしれない。でもそれ以上のものではない。あの聡明な橋本治が、この手の本をおもしろがったり している(「宗教なんかこわくない!」(ちくま文庫)参照)のは、ちょっと意外 だ。

2.3. まるでちがう方面の本

  どこまで一般性のある話かはわからないけれど、ぼくにとってほんとうにキリスト教 理解やイエスについての見方に影響のあった本は、ぜんぜんちがう本だ。

  それはバーナード・ルドフスキー『さあ横になって食べよう』(鹿島出版会)みたいな 本だ。著者ルドフスキーは建築家なんだけれど、かれは聖書の中の、キリストと弟子たちの会食の風景を読んでいて、ふと違和感をおぼえる。その中で弟子たちの一人がイエスの背中にからだを持たせかけて云々という描写があるんだが……

  これって、どうやるんだろう。

  人が並んでテーブルについているところを考えてみると、これはかなり無理がある。 そして他にもある。たとえばイエスは、食事をしながら首に香油を注がせたりする。 どうやって? テーブルで食べている時にそんなことをされたら、香油が食べ物に ボタボタたれて迷惑せんばんではないか。本書でもケンはそれに気がついていて、 このときイエスはかなりふんぞりかえって食っていたんじゃないか、と書いている。 が、それはえらく食いにくいはずでしょう。あるいは娼婦が、どこかに招かれて 食事中のイエスの足を涙でぬらし、それを髪でふいて香油をそそいだりする。 想像してみるといい。この娼婦は、ひとの家にやってきて、いきなりテーブルの下にもぐったわけ?

  ルドフスキーは、当時のほかの絵や資料を調べて、答えを見つける。当時は、人々は テーブルといすで食事なんかしなかったのだ。みんな、ごろごろ寝っ転がって、横に なったり腹這いになったりして食事をしたのだ。そうすれば、となりの人の背中や肩にからだをもたせかけるのは簡単だし、自然だ。食べながら髪に香油をかけるのだって、じゃまでもなんでもないだろう。足は投げ出されているから、涙で濡らしたりするのもたやすい。

  ルドフスキーはそこから、いろいろな食習慣の話を展開して、それはそれでおもしろい。でも、ぼくにとっては、これはキリスト教ってものの見方が変わる本だった。 だってこれって、ダ・ヴィンチをはじめいろんな聖像画に描かれた光景というのが、 実はまったくのウソで、単にだれかの思いこみが何度も何度も反復されただけの代物なんだ、という指摘ではないの。そしてさらに、この 2000 年にわたり、無数の人が聖書を読んできたのに、実はだれ一人として、まともに考えて聖書を読んでいなかった証拠ではないの。キリスト教を名乗り、イエスの一挙一動、一言一句に深い関心を抱いてきたはずの人々のだれ一人として、実はそんな簡単なことにすら思いをはせることなく、平気でイエスをテーブルにつかせてしまう。そしてそれが明らかになったいまも、それをいささかも 改めることなしに、テーブルについた金髪碧眼白人イエス像を平気で流布させている。 そうかそうか、結局キリスト教の本流というのは、実際にイエスがどうだったかなんて ことには、実はまったく関心がないのだな、ということも気づいてしまった。

  きちんと考えながら、とりあえず目の前の文を読む。それだけのことから、まったく いままでだれも気がつかなかった、でも考えてみるとあたりまえの疑問を導きだして、 ぜんぜんちがった(でも理にかなった)理解を生み出す------この点では、本書も このルドフスキーの本とよく似ている。イエスがえらく食い意地が張っているのは なぜ? どうして福音書とその後の記述はこんなに力点がちがうの? それを考える ことで、聖書について、そしてイエスと、キリスト教そのものに対する見方は、 かなり変わるだろう。そういうことに興味があれば、だけれど。キリスト教神学 というとすぐに、三位一体だとか受肉が云々とかわけのわからない話が出てきて、 すごいがっちりした体系があるような雰囲気だ。でもその根っこのところで、それ以前の変なはなしが結構あるのだ、ということだけでも、こういう宗教に対する 構えがかなりちがってくるだろう。

3. もちろん……

  もちろん宗教ってのは理屈じゃない。だれも、聖書を読んで理詰めで納得してキリスト教信仰に 入るわけではないだろう。ある人は、キリスト教の家庭にうまれついて、いつの間にか信仰 するようになったはずだし。たまたま身近な神父や牧師さんがとてもいい人で、とか、なにか 困ったときにキリスト教徒の人がとても親切に助けてくれたとか、あるいは すばらしい善行を行っている立派な人がキリスト教徒で、それに感動して自分も入信、ということ もあるだろう(『塩狩峠』的な入り方ですな)。キリスト教の宣教師があるときやってきて、 自分の崇拝していた神殿や神の像を 焼き払い、おまえたちの信仰は迷信で、われわれのこそが正しい神、とたたりもなく胸を 張ってみせたのにショックを受ける場合もあるだろう。そしてキリスト教とセットで やってきたかに見えた西洋科学文明に感動してキリスト教に改宗する人だっていたはずだ。 中には、単に結婚式を教会であげたかったので、促成キリスト教徒 養成講座を受けました、なんてお手軽な人もいる(いや、ホントにあるのだ、そういうのが)。 ある人にとっては、それは近所付き合いの一環でしかないかもしれない。いや、絶対に そういうのはある。日本だって、初もうでに行こうと言われて「いや絶対にいかない」と いうと角がだつし、つきあいで神社にいく人はいっぱいいる。キリスト教の教会でだって、 特に欧米ではそんな事態はいくらもあったはずだ。

  まあ理由はいろいろあるだろう。そしてそういうつきあいベースから入る信仰ではなく、 もっと切実な理由で信仰に入る人もいるだろう。ぼくはキリスト教徒ではないし、 Church of the Subgenius の司祭さまではあるけれど、これはちょっと特異な 宗教だから、通常の意味では特に神さまや仏さまを信じてはいない。でも、人が神さまを 求める気持ちはわかる。もちろんそれでも本当に信仰に入って いないんだから、実はそれは本当にわかっているとはいえなくて、単に見当はつく、 という程度のものかもしれないけれど。それは「なぜ」であり、そして同じことだけれど 絶望からくる、なにかにすがりたいという気持ちだ。そこからキリスト教に入るか、 それとも仏門に入るか、オウムに入るかは、実はたぶん、ちょっとしたきっかけの 問題にすぎないんだろう。それは教義なんかと実は関係ない、単なるきっかけの問題 なんじゃないか、とぼくはおもっている。仏さんに手をあわせる人は、だれも仏典 なんか読まない。なんみょーほーれんげーきょーだの、なむあみだぶつだのというのが どんな意味なのか、だれも気にしない。

  そしてキリスト教の場合でも、その社会的なおつきあいからの信仰にしても、 もっと切実な気持ちからの信仰にしても、 聖書そのものが果たしている役割は、実はかなり小さい。

  だから、本書がいまのキリスト教徒たちの信仰に影響を与えることはほとんどない はずだ。ただ、信者の人も(顔をしかめながら)本書を読む中で、自分が信仰して いるはずのイエスが本当に主張していたのがどういうことなのか、というのを もう一度考えてみてもらえたらいいな、と思う。自分の信仰の核にあるはずの、 この聖書という書物をもう一回読んでみるきっかけになってくれれば、と思う。

  そして信者でない人が、どんな腹積もりであれこういう本をきっかけに聖書をちょっとでも 読むなら、それはそれでよいことだろう。ついでに、クルアーンの日本語訳と、 仏典の基本的なとこくらいちょっと見ておくと、いろいろ実用的なメリットだって あるはずなのだ。

  本書のいちばんの被害者たちは、たぶん日曜学校やミッション系の聖書の授業なんかが ある学校の先生たちだろう。ぼくが中学生なら、本書片手によろこびいさんで先生を 質問攻めにして困らせる。生徒も先生も、がんばってほしいものである。

  そしてぼくは、一方でいまの聖書がいまのような形でキリスト教の聖典となっていることをすごくおもしろいと思う。なぜキリスト教はここまでとんでもない本を聖典として残しておこうとするのだろうか。キリスト教の歴史において、この本を編集しなおして改竄する機会はいくらだってあったはずだし、実際にいろいろ改竄されているわけだ。ケン・スミスが読んで気がつく程度のことは、昔から聖書を読んでいる人は多少は気がついていたはずだ。

  たとえば処女懐胎というつくりばなしをキリスト教の教義に盛り込もうとしていた人たちは、なぜマタイ福音書の冒頭の部分を改竄しなかったんだろう。マタイは、その手口からして、イエス・キリストがダビデの子孫だというのを証明したかった。それなのに、しょっぱなからそれができていない。なぜそれが放置されているんだろう。

  あるいは、本書を読むとわかるように、キリスト教の教義のゆがみの多くは、イエスの教え(あるいはイエス自身)をなんとかユダヤ教の枠組みにおさめようとして、変なこじつけをしようとするせいで生じている。でもかなり早い時期に、ユダヤ教会とあえて連続性をもたせる必要はまったくなくなっていたはずだ。なぜそれがずっと維持されてきたのか? ぼくはそんなあたり、うまい説明があれば知りたいな、とは思うのだ。

4. おわりに

  そもそもこの本を手にしたのは、著者のケン・スミスも、そしてそれを出した Blast Books の二人組も、ぼくの知り合いだったからだ。だからこの本もしばらく前にもらって、ゲラゲラ笑いながら読んではいた。それをたまたま 1998 年末にバングラデシュ出張に持っていって、ゼネストのおがげで外に出られずにひまでひまでしょうがなかったので、朝な夕なにクルアーン朗唱の流れる中、ダッカのホテルで出すあてもないのにペラペラ全訳してしまった。それをあちこち持って回るなかで、やっとひろってくれたのは晶文社の安藤聡氏であった。この解説がちょっと遅れてしまったけれど、ありがとうございます。

 2000 年 8 月 13 日
ウランバートルにて
山形浩生

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