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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載最終回: コンピュータは、あなたをもっと自由にしてあげたいと思っている、はずなのだ。

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(ascii.PC 2002 年 6 月号)
山形浩生



 前回ぼくは、文化ってのは文字コードの有無なんぞでダメになるほどやわなもんか? と書いた。必要があれば、人はいろんな新しい抜け道を編み出す。新しいやり方を考えつく。逆に、その抜け道や新しいやり方を考えることこそが創造ってことであり、文化ってことだ、とさえ言えるんじゃないか。漢字コード関連でいえば、香港の隣の経済特区の都市は深せんという。一九九七年のアジア通貨危機以前は、アジアの経済成長について書くときにはこの都市にふれないわけにはいかなかった。でもこの「せん」の字は日本の漢字コードにはない。でも、それじゃあ人は深せんについて書くのをやめるだろうか? まさか。ひらがなやカタカナで書くか、あるいは深土川と書く手をよく使った。すが秀美という文芸評論家がいる。この人の名字はふつうの文字コードにない。じゃあ、この人に関する話題は衰退するだろうか。「あいつの名前はコンピュータで処理できないから」と言ってかれの書くものは陽の目を見なくなるだろうか。いいや。これまたひらがなで書いたり、あるいは糸圭と書いて急場をしのいだりする。もちろん、かれの書くものがそういう労力に見合うほどのものかどうかは、まったく別問題だ。

 漢字というのは、実はまさにこういうやりかたで新しい字を常につくることで活力を保ってきた。そして、この方法を逆手にとる手法も生まれている。たとえば「謝罪」と書くとき、「言身寸 四非」と書いてみたり。こうすると、検索で見つかりたくない文字を表現できる。検索されたくない場合なんかあるのかって? ある。たとえば、子供に有害なコンテンツを追放しようというつまらない運動をしている人たちがいて、かれらはたとえば英語圏だと fuck と言うことばをすべてシャットアウトする。でもそんなケチな連中の思い通りにさせてたまるもんですかい。それを逆手にとってアパレルブランドのフレンチ・コネクションは fcuk ということばを使いまくり、かえって目立った。あるいはこの手の連中は「セックス」ということばの入ったページや発言が表示できないようにしたりする。これでイギリスのエセックスやウェセックスに住んでいる人たちがとんでもない目にあったという冗談のようなホントの話があるけれど、2ちゃんねるという巨大掲示板では、セクースと書いてこれをかわす。文字しか使えないこの掲示板では、絵の表現にアスキーアートが使われて、それがすさまじい表現力を獲得していまや独自のジャンルにまでなっている。不便さが新しい表現を作り、新しい文化を生むこともある。

 もちろん、だから文字コードは不便でいいとか、検閲は問題ないのですとか、そういうことを言いたいわけじゃない。でも文化というのはある意味で、出来合のお膳立ての中でチマチマとままごとをするようなことじゃなくて、時にそのお膳立てそのものを逆手にとり、時にそれをひっくり返すことで生まれ育ったりもする、ということだ。


 さて。コンピュータというツールがある。これが多くの人の手にわたることで、ぼくたちはまったく考えもしなかったような自由を手にした。デジカメで写真をとって、それを加工してみたり、アルバムにしてみたり。10 年前には一個人では手も足もでなかったような、文字とグラフと写真とを自由に織り交ぜた文書が作れるようになってみたり。これはすごいことだ。インターネットが出てきた。これまた、いままでまったく想像もしなかったような自由を許してくれるものだった。これだけすさまじい量の情報にすぐアクセスできる。自分の言いたいことがすぐに世界中に発信できる。アレもできる、これもできる。

 ところが、これがあまりに便利すぎるために、逆にそれが人の可能性を制約するようになっている場面が出てきている。

 たとえばフォトショップというソフトがある。これはとっても面白いソフトだ。このソフトで写真をいじって、アイドルの顔をヌード写真に合成してみたりとか、顔をおたふくにしたりとか、いろんなことができる。あるいはぼかしてみたり、水彩調の表現にしてみたり、フィルタを使うことで、いろんな処理もかけられる。あるいは、イラストレーターとかフリーハンドとか、各種のお絵かきソフトがある。これもすごい。筆状だろうと刷毛状だろうとエアブラシだろうと、いろんな表現が自由自在。ところが、これが便利すぎるために、一部の美術学校でCG学科なんかにいくと、授業がほとんどソフトウェアの使い方講習と化している例も多いそうな。そしてできあがる作品も、いかにもイラストレータ調の作品、とかフォトショップ風の作品、なんてのが山ほど出てくるようになっている。そしてそれに対して「こうしてみたら」と先生がコメントすると「でも、そういうフィルタがないから」「そういうソフトを買うお金がないから」と返事する生徒がかなりいるんだって。

 極端な話をすれば、コンピュータで作る絵なんて、ただのデータの集まり。やろうと思えばそれはどうにでもいじれるはずなのね。画像ファイルの一ビットごとに、自由自在に加工して、どんなことでもできるはずだ。それなのにソフトがやらせてくれることしかしない、できない。そんなことでいいんだろうか? 新しい材料を使い、新しい技法、新しい手法を開発して、新しい表現を生み出すことにこそ、アーティストとしての価値があるんじゃないだろうか。もちろん、美術学校の生徒のすべてが偉大なオリジナリティあふれるアーティストになるわけもなくて、多くはまあそこそこのクォリティのものをそこそこ生産できるテクニックさえ身につけられればいいんだから、それで構わないとはいえる。でもその一方で、それだけじゃ進歩も発展もない。

 子供が絵を描くと――いや、自分が子供時代にどんな絵を描いていたか考えてみると――水は必ず水色で塗り、空は空色、人は必ず肌色(という言い方はもうしないそうだけれど)で塗る、という時期がある。そして「水色のクレヨンがないから水が描けない」「肌色の色鉛筆がないから人が描けない」と言う。あるいは工作で、材料の指定に 3 ミリ厚のバルサと書いてあったら、とにかく 3 ミリバルサがないとダメだ、と思いこむやつも多い。あるいは料理でもそうだ。初心者ほど、材料に書いてあるものをとにかく杓子定規にそろえなきゃならないと思いこんでいる。それが一つでもそろわないと、この料理はできないと思いこみたがるし、教科書に書いてある通りのステップを律儀にふまなきゃいけないと思いこむ。

 絵や、工作や、お料理では、しばらくやるうちにそういう段階は超える。夕日の反射した海を見て、海を赤く塗ってみたりできるようになる。真っ青な人も描ける、というかある時にはそれ以外の表現があり得ないこともわかる。バルサも、厚いのを削って間に合わせたり、そこらに落ちている木のかけらで代用したり。料理だって、片栗粉がなきゃ小麦粉で済む場合も多い。ちなみに、世の片栗粉のほとんどは、実はカタクリなんかではなく、ジャガイモのでんぷんなのだ、なんてことは常識なのかな。まあそれはさておき、できあいのメニューに(必要以上に)しばられなくなることこそ、上達の一つのハードルがあるんだ。

 でも、コンピュータでそこまで行く人はほとんどいない。多くの人は、ソフトのメニューで与えられた以上のことはまったくできない。いや、ソフトのメニューにあることさえまともに使いこなせない。これはある意味でとっても残念なことだ。

 一つには、コンピュータそのものの特性がある。理論的には、コンピュータではたいがいのことはできるけれど、メニュー以上のことをやろうと思えば、プログラミングを覚えなきゃいけない。これは確かにハードルが高い。いちいちそんなことができるか、という人もいる。ごもっとも。だれもかれもがプログラミングなんてできるわけがない――これまたごもっとも。車だって、みんな改造どころかメンテも修理もできずに、出来合いのもので満足してるじゃないか。これまたごもっとも。

 でも、本当に創造力のある人は、それを本当にやる。自分でプログラミングできなければ、できる人に相談する。あるいは自分でプログラミングを本気で勉強してしまう。日本を代表する現代アーティストの一人三上晴子の最近の作品は、ホントにアートなのかマン・マシン・インターフェースの実験なのかわかんないようなものになってきている。ぼくの好きな岩井俊雄の作品だってそうだ。そして、それを通じてかれらは新しい表現の領域さえ作ってしまう。デスク・トップ・パブリッシングの常識をぐちゃぐちゃにひっくり返したデビッド・カーソンは、文字をただの絵の一種に還元した、異様なデザインやレイアウトを創り出した。既存のフォントがなければ独自のフォントを次々に創り出し、DTPソフトのお約束事なんか一切無視して。映画「セブン」のタイトルバックみたいな感じだ。そしてそのタイトルバックでかかっていたナイン・インチ・ネイルズは、敢えて新システムを開発させて、20 年前の人なら雑音としか感じなかったであろう金切り声と機械の摩擦音と歪みを極限にまで進めて、それを美しいと感じさせてしまう。コンピュータ以前のアナログ時代でも、ケイト・ブッシュは「ドリーミング」のレコーディングで、72トラックのテープデッキをわざわざ作らせた。その後、日本のジャリタレなんぞが金にあかせて同じモノを使ったレコーディングなんかをしている。でも、全然格がちがう。だって、72 トラックという数がすごいんじゃないもの。24 とか 36 トラックの録音装置しかない時代に、72 トラックどうしても必要だと思ってそれを敢えて作りだして、時代の制約を突破したところに彼女のすごさがあった。既存の制約を破ることにこそ、人間活動の地平を広げて生を豊かにする力があるんだ。逆に、「アレがないからできない」「これがないからできない」とかいう発言のかなりの部分は、自分がサボる口実でしかないのも、みんな身を持って知っているよね。あなた、新年の抱負は続いてます?

 そんな高度な話じゃなくてもいい。ぼくは本業のほうで、報告書を日々書いている。データをもとに、グラフを作ったり写真を撮ってきたりして、それをワードなんかのファイルに貼り込む。昔はそういうのは、場所だけ空けておいて、手で切り貼りしていたのだ。いまだってちょっと大きめの報告書を作ると、グラフがぐちゃぐちゃすぐに動いたり、画像が表示されなくなったりして、そんな時はすぐに紙でプリントアウトして切り貼りだ。ところが「エクセルの表がでかすぎてワードに貼り込めない、だから報告書ができない」なんてことを言う子がときどきいる。別にすべてコンピュータ上でやらなくったっていいのに。あるいは、ローンの元利均等返済額計算とかデータの件数を数えるエクセルの関数がわからなくて、それを調べるのに半日つぶすバカとか(三浦、おまえのことだ!)。コンピュータにしばられてんじゃねーよ。ご大層な大学出てるんだから、ローンの返済額くらい、自分ですぐに式を作れるだろが! データの件数ほしけりゃ、はやい話がデータの最後に一列作って全部に 1 入れて、その列を合計しろ! ちったあ自分で工夫しろといふのだ。なんでもかんでもエクセルに関数を用意してもらわにゃ計算できんのか、テメーは! オレは情けないよ……こうしていつの間にか、人は気がつくと、ソフトにしばられ、コンピュータにしばられ、ネットにしばられ、自分を自由にしてくれるはずだったものに、かえって制約される。これを読んでいるあなたはどうだろうか。あなたは、あなたのコンピュータに縛られていないだろうか。そして自分の不自由さ、融通のきかなさを、コンピュータのせいにしていないだろうか。


 というわけで、そろそろこの連載も終わりだ。ぼくはあなたたちに、コンピュータのきもちを理解して欲しいと思った。これはもちろん一種のたとえだ。なるべくそれを、ブラックボックスとして考えずに、何か人の延長みたいなものとして、中身のわかった存在として理解してもらいたかったんだ。そう考えることで、人がコンピュータにとらわれずに、それを必要以上にまつりあげることなく、もっと自由になることができるんじゃないかと思ったからだ。それはうまくいっただろうか。そして同時に、コンピュータのそもそもの存在意義というか、天命を考えてほしいと思ったのだ。コンピュータだって、自分の天命を全うしたいと思っているだろう。あなたは、そうさせてあげているだろうか。あなたはコンピュータのきもちに応えてあげているだろうか。

 あなたにとって、コンピュータは、まだまだ不自由なものかもしれない。この雑誌のいろんな連載がある。エクセルやワードで、あれをするには、これをするには、という記事がたくさんある。そういう記事は、こういうソフトの持っている可能性を教えてくれる。でもその一方で、それはそれらのソフトが持つ不自由さの証拠でもある。いろんな関数やいろんな機能は、だれかが利用者の自由を増そうとしてくっつけたものだ。コンピュータでこんなことができたらいいな、あんなことができたらいいな、という願いがあって、それを実現するために実装された機能だ。でも、選択肢がいろいろありすぎるから、かえって混乱している人もたくさんいると思う。自由をもたらすはずのものが、多くの人にとってはいたずらにソフトをややこしく肥大化させて、かえって不自由にしている。だからこそ、人はこんな雑誌を買って、解説記事なんか読まなきゃいけなくなっている。あるいは、「あれを買えばこれができます」「これを買えばあれができます」という記事もたくさんある。それは事実ではあるんだけれど、でもその一方でそのために人は、自由ってのはお金で買うものだという幻想にひたりこんで、それ以外のオプションがあることも考えなくなってしまう。

 とりあえずは、メニューの範囲内で自分にできることを拡大させるのもいい。それもまた、あなたの自由を拡大するための一つの方法だ。お金で買える自由だってもちろんある。商業ってのはまさにそのためのものなんだから。それを必要以上に否定することもない。ただ、それは多くの場合、他人が作ってくれた自由から一歩も外に出るものじゃない。それだけに頼っていると、バージョンアップでソフトの仕様が変わったとたんにおたつくことになる。いずれ、お仕着せの何かを探す前に、考えるようにしなきゃいけない。自分の手持ちの知識や能力の組み合わせで悩みが解決できないか――それができるようになることで、人はあてがいぶちのメニューの制約を超えられる。そうやって作ったものと同じものが、すでにメニューにあるかもしれない。でも、それは重要じゃない。あるものを使うだけの立場から、要るモノを自分で作れる段階にまできた人は、いつかメニューにないものを作ることができる。いつか、お仕着せの自由を越えて、独自の自由を構築できるようになる。

 そしてたぶんコンピュータも、そうしてもらってこそコンピュータ冥利につきるってもんだと思うのだ。もともとパーソナルコンピュータなんてものの意味は、いろんなソフトや、ちょっとした機能の組み合わせによって、それぞれの人がまったくちがった独自のコンピュータの使い方を見いだすことにある。できあいのメニューでなんでもすむなら、どっかに一台でかいコンピュータをおいて、ひたすら同じことをさせときゃいいんだから。昔、IBM のえらい人が世界のコンピュータ需要の予測を求められて「世界中の計算需要は、ウチの大型計算機が 5 台あれば全部解決できる(だからコンピュータ業界は頭打ちでっせ)」と語った。パーソナルコンピュータは、これを裏切るために創り出された存在だと言っていい。それがパソコンの天命だ。いろんな組み合わせ、いろんな操作で、これまでだれも想像もしたことのない、新しい使い方ができる――それがパーソナルコンピュータのおもしろさだ。大型計算機5台じゃとてもまかないきれないこと――それをどんどん考えついて実現することが、パーソナルコンピュータの天命をまっとうさせてやることになる。そしてそれを引き出すってことは同時に、あなたが人として自分の持つ制約を超えられるようになるってことだ。あなた自身が自由を獲得する、ということだ。

 そしてそれこそたぶん、あなたがコンピュータのきもちに応えるということでもあるのだ。


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YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
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