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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第 10 回:コンピュータは、電子ファイルの夢を見るか?

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(ascii.PC 2002 年 3 月号)
山形浩生



 生まれつき目が見えなかった人が、たとえば医療技術の進歩なんかで、ある日目が見えるようになることがある。映画や小説だと、家族たちの見守る中で顔に巻いた包帯が解かれ、そしてその人が「み、見える! 見えるぞ!」とか叫んで、家族と手をとりあってハラハラと涙を流す、なんてシーンがそこで登場するんだけれど、実はそんなことには絶対ならない。
 なぜかというと、ずっと目が見えなかった人は、そもそも見えるってのがどういうことなのかを知らないからだ。目が見える人は、机の上から「はさみ」とか「お金」とか「本」とかを識別できるのは当然のことだと思っている。そういうふうに見るな、というほうが無茶な話だと考えてしまう。でも、実はそれはぜんぜん当然じゃないのだ。初めての人にとって、見えるものはなにやら変な色のついた模様でしかない。その中のこの模様が「はさみ」とか「CD」とかを、見分けることができない。さわれば、かれらはもうばっちり「あ、はさみ」とわかる。でも、見ただけじゃわからないんだって。ここまでがはさみで、ここからは机の表面、というのがわからずに、一塊りにしか見えない。そしてある程度歳がいった人だと、目が見えるようになってからかなりたっても、それを識別する能力はなかなか身につかないそうだ。

 こんなふうに、ぼくたちが当然だと思っていることが当然でない例はたくさんあって、たとえば英語は、単語ごとに区切れている。日本語は句読点はあるけれど、こうやってだらだらと切れ目なく続いている。ぼくたちは、そのだらだらと続く文字の列の中から、あたりまえのように単語を切り出すことができる。でも英語圏の人たちにそういう状態を理解しろというのは、なかなか難しいことだ。

 コンピュータでそういう、ちょっと使うと慣れればあたりまえですぎて考えもしないのに、最初の頃はとっつきがえらく悪い概念がいくつかある。その代表的なものが、ファイルとフォルダ/ディレクトリ、そしてアプリケーション/プログラムとデータ、という考え方だ。


 ある本で読んだことだけれど、コンピュータのヘルプデスクとかで、いちばんやたらに多いのは、「ディレクトリ」とか「フォルダ」に関する質問だそうだ。これを読んでいる人に、フォルダとかディレクトリっていうのが何なのか、説明する必要はあるかな? ウィンドウズやマックを使っている人は、コンピュータの画面に、フォルダのマークが出ていて、それをダブルクリックするとそのフォルダが開いて、その中にいろんなファイルとかフォルダが入っているんだ、ということは知っているだろう(知っててね、お願いだから)。そうやって、関係あるファイルをひとまとめにするのがフォルダで、フォルダの中にさらにフォルダを入れることもできる。ディレクトリっていうのも、ほぼ同じ概念だと思ってくれていい。

 で、ヘルプデスクにくる質問で多いのは「ファイルがどこかに消えてしまった、どうしてくれる」というものなんだって。もちろんその原因は、何かの理由でコンピュータのフォルダが別のところに移っているからだ。ウィンドウズだと、ふつうファイルを保存しようとすると「マイドキュメント」のフォルダに入る。メニューで「開く」を選ぶと、そのフォルダの中身が表示される。でも、だれかがマシンをいじったりして、別のフォルダが開くようになっていると、多くの人はそれが別のフォルダだという認識がなくて、ファイルが消えたと思って焦るんだとか。

 そういう人たちは、フォルダという認識はあまりなくて、とにかく保存すると保存される、という認識しかない。「フォルダ」とかその中、というのは、ファイルを場所それがどこかの「場所」に保存されるという風には理解していないんだって。で、そういう人がさらに苦手なのが、階層型フォルダ/ディレクトリの考え方。フォルダの中にフォルダがある、というやつだ。

 初めてこの話をきいたとき、ぼくはまさかと思ってとても信じられなかったんだけれど、その後会社で、自分の作ったあらゆるファイルをすべてデスクトップに並べている人を見かけて、その認識を改めた。「フォルダ作って整理したらどうですか」ときくと、「いや、それをやるとどこにあるかわからなくなるからこの方がいい」と言う。ぼくから見ると、そうやって全部広げてあるほうがわかりにくそうなんだけれど。まさに何がどこにあるかわかるようにするために、フォルダを作って整理するんじゃないのー? でも、コンピュータの構造を空間的にとらえていない人にとっては、そういう考え方自体がわかりにくいわけ。階層型のフォルダが好きな人は、「ファイルがフォルダの奥深くにある」と言ったりする。その人は、「深く」とか「浅く」とか、無意識に何か立体的な構造をそこに思い描いているのね。それに対して、すべてを広げる人は、平面的な理解をしているか、あるいはそういう空間とか場所的な考え方をまったくしていない。

 実はそれはそれで結構自然なことでもある。この階層型のフォルダとかディレクトリ、という考え方は、結構新しいものだ。さっきフォルダとディレクトリっていうのが同じものだ、と言った。ウィンドウズ以前からコンピュータを使っている人は、ディレクトリという名前のほうがお馴染みだ。フォルダという捉え方が出てきたのは、グラフィックユーザインターフェース、特にマッキントッシュが出てきて、それがディレクトリの表現にフォルダの絵を使ったからだ。

 そしてディレクトリっていうのは一覧表のことだ。英語圏で、コンピュータ以外でディレクトリと言えば、電話帳なのね。いまだと、ディレクトリを表示というと、ツリー状の表示になったりする。でも最初にディレクトリというものがコンピュータに導入されたとき、それは別にフォルダとかみたいな空間的なものじゃなかった。ただの一覧表だったのだ。つまり、それは空間的にファイルやフォルダをとらえていない人の理解しているような形と、とっても近かったわけ。それがやがて、いまみたいな区画というか場所の概念に変わってきたのね。

 いまのコンピュータは、ウィンドウズマシンだろうとマックだろうと、階層型のフォルダ/ディレクトリを極端に多用している。だからこの古い概念のままの人はかなりつらい思いをすることになる。それにデスクトップに書類を並べるのは、面積的に限界がある。仕事をしてれば、いつかはデスクトップが書類で埋め尽くされて収拾がつかなくなる。とはいえ、ぼくの会社の人は「長」がつく役職の人だったので、このためにモニタを大きなものに買い換えるという荒技を使ってくれたけれど。でも、これだって限界がある。どこかでなにか整理が必要にはなってくる。だから、はやめに階層型のフォルダ/ディレクトリの考え方に慣れたほうがいい。その時には、いろんなファイルやフォルダが、具体的にどこか場所にあるような、そんなイメージを描いてみるといいようだ。そしてその場所の中で、フォルダやファイルを、手でつかんであちこち動かしてみる、そういうイメージトレーニングが結構きくんだって。うーむ。


 ついでに言っておくと、ファイルというのも、最初は結構わかりにくいものみたい。特に、実際に物理的なファイルをたくさん作って日々いじっている人は、なぜそれを「ファイル」と呼ぶのかピンとこないそうな。「コンピュータで作っているのは、ファイルじゃなくて文書じゃないか」と思うんだって。「ファイルってのは文書を束ねたものでしょ。文書一つだけなのに、なぜそれがファイルなの?」と。それはまあ、しごくもっともな疑問ではあるよね。確かに、レポートとか報告書とか、「ファイル」と呼ばれているのは、実は文書や書類に近い。ワープロや表計算ソフトを使ってぼくが作るのは、個別の文書であって、それを綴じたファイルではない。

 なぜそれがファイルと呼ばれるか、というのもまた歴史的な経緯があるのだ。ファイルっていうものは、昔はいろんな定型のデータの集まりだった。それこそ、住所録みたいな、名前、郵便番号、住所、というひとまとまりの定型データ(レコード)があって、それをたくさん集めてまとめるとファイルになる。つまり、レコードを束ねたものだったから、それはファイルという名前がついた。

 昔、特に大型計算機時代は、コンピュータというのはそういう定型データを大量に処理するのが作業の中心だった。だからこの考え方には意味があったのだ。その後、コンピュータは定型のレコードばかりを扱うものじゃなくなってきたから、この表現は実態にあわなくなってきている。でも、むかしの名残で、みんなこれを使い続けているわけ。

 そういう昔話からの遺物はコンピュータ業界にはたくさんある。フロッピーディスク、という名称もその一つ。ハル・ハートリー監督の『愛・アマチュアたち』というあまり恵まれない邦題の映画で、主役の男が3・5インチのフロッピーディスクを手にして「ちっともフロッピーじゃないぞ」と首を傾げるシーンがある。フロッピーというのは、英語では「ペラペラした」というような意味だけれど、いまみんなが使っている三・五インチのフロッピーディスクは、外側がプラスチックで固いからだ。もっとも中身は相変わらずペラペラだけれどね。でも、むかしのフロッピーはもっとでかくて、五インチとか八インチとかで、さらに外側のジャケットからして紙でペラペラしていたのだ。だからフロッピーという名前がついてるのね。「バカな上司が書類にフロッピーをホチキスで留めちゃって」というのは、昔よくあったおたくジョークの一つだ。が、それはさておき。

 さらにもう一つ。アプリケーションとかプログラム、と呼ばれるファイルと、そのデータファイルのちがいも、最初は理解しにくい。コンピュータ上では同じファイルだものね。これは、すべてをファイルとして理解しようとする方式の無理が顔を出しているところ、ではある。ふつうは、道具としてのアプリケーションと、それを使ってぼくたちがつくりあげる成果物としてのデータファイル、という整理をしておけばいいだろう。

 で、話は最初の「見える」ってことの話に戻るんだけれど……コンピュータ自身は、ファイルとかフォルダ/ディレクトリとかいう形で、データを認識しているんだろうか。

 ウィンドウズを使っている人なら、ディスクにデフラグをかけたことがあるかもしれない。ファイルを書いたり消したりするうちに、一つのファイルが「続きはあっち」という具合に、いくつかに分かれちゃうことがある。それがあちこちで起こりすぎると、一つのファイルを読むのにコンピュータはディスクの中であっち飛びこっち飛びしなきゃいけないから、効率が落ちる。デフラグっていうのは、それを並べ替えてファイルを全部、それぞれひとまとまりにすることだ。

 で、その時には、実際にどんな具合にファイルがディスクの中に書き込まれているかが表示できるんだけれど、それを見るとファイルが整然と並んでいるという感じよりは、ぐちゃぐちゃっとした雑然としたかたまりなのだ。もちろん一つのディスクの表面に書き込まれているから、ディレクトリだのフォルダだのも見えない。全部だーっと同じレベルに広がっている。それは、階層型ディレクトリとはちょっとちがったデータのあり方で、むしろ古い、ファイルの一覧に近いあり方ではある。コンピュータ自身にとっても、ひょっとしたら実際の物理的なデータとの対応で見ると、階層ディレクトリ構造というデータ処理方法は不自然、なのかもしれない。いやひょっとしたら、コンピュータ自身は「ファイル」という単位ではこのデータを認識しないかもしれない。目の見えなかった人の初めての「風景」みたいに、もわっとした一つながりの模様として、ファイルとかいう区別なしにデータの様子を見ているのかもしれない。あるいは、ぼくたちがそう見ることで、新しいコンピュータの捉え方が可能になるかもしれないな、と時々思う。

 またはさっきのアプリケーションとデータの話でも、道具とその成果、という考え方は不自然かな、という気がしなくもない。ぼくたちは「アプリケーションの中からファイルを開く」という言い方をする。データが自分とともにそのプログラムの中に入って変化を受けるような、そういうイメージを多くの人は無意識に持っている。それはアプリケーションをぼくたちが部屋のようなものとして理解しているということでもあるけれど、もう一歩進んだ考え方をしてもいいんかないか。生き物がモノを食べてエネルギーとウンコに変えるような形で、アプリケーションやプログラムがデータのファイルを作るような考え方をしてみると、何かまったくちがったコンピュータ像ってものができるかもしれない、と思うことがあるのですよ。特にこの連載みたいな「コンピュータのき・も・ち」なんてものがあるという立場にたてば。

 そして、そういう生き物としてのプログラムの捉え方は、すでにおきつつある。その最大のものが、コンピュータウィルスというやつだ。が、今回はもう後がない。

 次回は、このウィルスっぽい話から、プログラムっていうのがどう作られるかという話をしてみようか。じゃまた。


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