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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第7回 オペレーティングシステムのつづき:Unix系の人はなぜいばってるのか。

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(ascii.PC 2001 年12月号)
山形浩生



 さて、前回はオペレーティングシステムのなんたるか、というようなお話と、なぜマッキントッシュのマニアはいばっているのか、というような話をした。が、世の中いばっている人はマックユーザだけじゃない。ウィンドウズユーザは、寄らば大樹の陰というか虎の威を借る狐というか、とりあえず自分たちが天下を取った気でいるのでいばっているし(別にその人がえらくてウィンドウズが広まったわけではぜんぜんないんだけれどね)、またコンピュータといえばウィンドウズしか知らない人がいまや異様に増えて、そういう人が知らず知らずのうちにずいぶん傍若無人な行動に出ることがある。たとえばメールでいきなりMSワードのファイルを送りつけてくるとか。

 が、いばっているといえばこれ以上いばっている人たちもいないくらいにいばっているのが、Unix系のオペレーティングシステムの人たちだ。今回もまた「コンピュータのきもち」からちょっと離れて、この人たちのいばり具合を中心に話を進めよう。

 みなさんが使っているパソコンというのは、ある意味で下からだんだん成長していった存在だ。20年前、マイコンと呼ばれていた頃のコンピュータには、キーボードなんかついてなかった。壁の電気をつけるみたいなスイッチが並んでるだけだった(注:ここんとこ、IMSAI8080かなんかの写真があると吉)。ディスプレイもなかった。発光ダイオードがちかちかしているだけだった。それがだんだん、キーボードやディスプレイ、フロッピーディスク、ハードディスク、モデム、マウス、ネットワーク、という具合にいろんなものを備えるようになっていって、いまみたいなまとまったパソコンができてきた。

 でも、それとは逆の流れがあった。その昔(30年前)、「電子計算機」というほうが通りがよかった頃のコンピュータは、大型計算機だった。IBMのメインフレーム。むかしの映画によく出てくる、空調つきの部屋を丸ごと占領するような巨大なシロモノで、でっかいテープがグググ、ギーッ、グググと回っていて、白衣を着た人と、キーパンチャーと呼ばれるおねーさんたち(これはタイピストの延長だったので圧倒的に女の仕事だった)しか扱えないことになっていた。ちなみにキーパンチャーというのは、人が鉛筆で紙に書いたプログラム通りにカードに穴をあけて、機械に読めるようにするのが仕事の人だ。

 ちなみにぼくはこれを多少なりとも味わった最後の世代だろう。大学の学部時代は、夜にプログラムを書いてそれをパンチカードにして(もちろん学部生は自分でカードに穴を開けるのだ。とはいえぼくの頃は大学入試の共通一次導入の影響、かどうかは知らないがマークシート方式だったけれど)、朝にそれを申請書とともに提出して大型計算機に読んでもらって、実行してねとお願いする。で、大型計算機は何千という人からお願い(ジョブ、と言うのだ)を受け取るので、それをいろんな優先度(これは金払いとか、その人の身分とか、プログラムの大きさとかで決まる)に応じて順番にこなしていく。もちろん学部生なんて優先度は最低なので、朝頼んだ時点で二十人待ち、昼休みくらいに処理が終わってるのがふつうで、特急仕事の多い卒論・修論シーズンだとどんどん後回しにされて、夕方になっても一向に終わらずに助教授に泣きつく、というのがよくあるパターンだったっけ。その後、カードはさすがになくなって、キーボードで直接プログラムを書いてジョブを投入できるようになったけど(いやはやVOS3には泣かされました、と言ってわかる人は本誌の読者にはいないだろうネ)、流れは同じだった。これが、バッチ処理と言う方式。

 当時すでに、前回絶賛したアップルIIやIBM PC/XT/ATを筆頭に、パソコンはあった。だけれど、それはまだおもちゃに毛も生えないシロモノだった。まともな構造計算や交通シミュレーション、財務計算をするには、メインフレームのお世話になるしかなかった。ちなみに当時1980年代半ば、アメリカの冗談音楽業界では、I'm a Mainframe という歌がはやっていた。「おれはメインフレームだぜベイビー/ハードディスクだって持ってる/おまえのちんけなフロッピーなんかの20倍もこなせるぜ」

 そういう大型計算機は、だけれどその頃にはすでに衰退に向かっていた。大型メインフレームの多くは、1980年代前半には急速にミニコンと呼ばれる大型冷蔵庫3つ分くらいのマシンに淘汰されつつあり、不動と思われていたIBMの地位は急落、DECを筆頭にミニコンメーカーが全盛期を迎える。

 そしてこのあたりで、コンピュータの使い方に決定的な変化が起きた。朝お願いしても処理の開始は昼過ぎ、というようなのじゃない、端末に打ち込んだソフトやコマンドを、コンピュータがその場ですぐに処理してくれる、対話型(インタラクティブ)コンピューティングが、この頃に実現され始めたんだ。

 たとえて言うと、昔の大型計算機時代は、あなたがアスキーのホームページをみたかったら、「ブラウザをたちあげてwww.ascii.co.jpにアクセスする」という手続きを紙に書いて、申請書を添えて提出。するとまあ二時間くらいして、結果が紙に印刷されて出てくる。どこかのリンクをたどりたければ、また申請書を書く、というのを繰り返していたわけ。それがいきなり、いまと同じように自分で好き勝手にコンピュータとやりとりできるようになった。

 すごい。

 さらに。そのミニコンの相当部分が、ものの数年でワークステーションと言われる、いまの感覚だとパソコンの偉そうなやつに淘汰されることになる。ミニコンといえどもかなりでかくて、ふつうの部屋におけるようなものじゃない。それが、なんとワークステーションになると机の上に置けるようになってしまった! そして多くの人にとってもっとすごかったのは、ミニコンでも使用料の課金があったのが、ワークステーションだとほとんど自分専用! 使い放題! この業界の雄は、サン・マイクロシステムズという会社だったけれど、ほかにもHPとかソニーのNewsとかアポロのドメインとかDECstationとか、驚異のグラフィクス性能を誇ったシリコン・グラフィックスのシリーズやNeXTなど、ワークステーションの全盛期が数年続いた。

 そしてそのほぼすべてでUnix系のオペレーティングシステムが使われていた。

 ワークステーションは、パソコンなんていうおもちゃとは次元のちがう、高水準のエンジニアリングで構築された(当時としては)すごいマシン群だった。そして、そういうマシンを使っている人たちは、当然パソコンなんてバカにする。当時のUnix雑誌を読むと「マッキントッシュやIBM PCの基盤はノイズも放熱も考慮されない、設計思想皆無の場当たり主義であちこち手抜きで見るに耐えないねえ、ああ醜いああいやだ」てな記述が散見された。「マックやウィンドウズなんて、しょっちゅう落ちるしエラーがでるし、信頼性皆無でとても使い物にならないね、ふん」とか。そしてそれは決してウソじゃない。とはいえ、人は、エンジニアリングの粋を尽くしたロレックスやパテク・フィリプの数百万の腕時計でなくても、一年で壊れる1000円の安物クォーツ腕時計で十分すむ場合のほうが圧倒的に多いんだけれどね。でも、こういう優越感は確実にあった。いまでもある。

 そしてこれが「Unixを使ってるやつ(つまりワークステーションのユーザ)のほうがちんけなパソコンのユーザより圧倒的にえらい」という意識につながっている。Unix系ユーザが未だにいばっているのは、こういうところにルーツがあるのだ。かれらは自分たちがコンピュータの歴史のなかで、「計算機センター」というものの周辺にとぐろをまいていた、大型計算機から連綿と続く正統的なコンピュータの伝統の後継者だ、という自負があるんだ。

 ここだけの話、実はワークステーションの人たちは、大型計算機やミニコンの人たちに、同じような悪口を言われて、それを恨んでいたらしい。「おもちゃだ、しょっちゅう止まるし、信頼性が低いし、本当のクリティカルな業務になんかとても使えないよ」と言って。これに対する反動ってのもあったんだろう。いじめられっこが、機会があったとたんに一番悪質ないじめっこに変貌する、というのはよくあることだから。

 が。歴史は繰り返す。バカにされていたパソコンは、ぐいぐい性能をあげていく。さらにIBMが、PC/ATなどの仕様を公開したのと、互換BIOSが開発されたおかげで(注:BIOSってのは、コンピュータのスイッチを入れたときに最初に読まれるソフトだ。IBMは最初、ハードウェアは公開してもこのBIOSを自分だけで抑えておくことで、互換機の拡大を防ごうと思った。でも、いくつかの会社がIBMのものを一切見ないで互換BIOSを開発し、販売しはじめた。このおかげでIBMは互換機の出現を抑えられなくなる)、互換機メーカーが一斉に出現、熾烈な価格低下と性能向上競争をはかる。当時の互換機の旗手がコンパックだ。ある時期は、IBM互換機のリーダーは、IBMではなくコンパックで、マイクロソフトだってコンパックのマシンで動かないようなソフトは出荷できなかった。IBMが、パソコン市場での優位性を回復すべくMCAという規格を発表したときも、これをつぶしたのはコンパックを旗手とする互換機メーカー連合だ。

 ちなみに、そういう時代をみているぼくみたいなジジイにしてみれば、コンパックごときが、あの超エクセレントカンパニーとして一世を風靡したDECを買収するとか、あのIBMをも屈服させたコンパックがこんどはHPに買われるとか、いやあ、時代は変わったね、と遠い目をするしかないんだけれど。

 そしてそうこうするうちに、上位のパソコンはなまじの安いワークステーションなんかを上回る性能を持つようになっちゃったのだ。

 また、特にマッキントッシュ(そして後にはウィンドウズも)のユーザインターフェースの優秀さは、Unix系を遙かにしのいでいた。Unix系のOSは、そもそもコンピュータがわかっていて使える人を想定している。素人の利用を最初から想定していたマッキントッシュ(そしてそれを真似したウィンドウズ)に比べれば、どうしてもとっつきは悪い。Unix系のオペレーティングシステムは、一時内紛が続いていて、あまり進歩しなかった。また、古い環境を大事にするあまり、新しいグラフィック環境への対応は遅くて、文字だけで使える環境がごく最近まで主流だった。Unix系で使われるグラフィック環境はXウィンドウシステム、というものだけれど、これはマッキントッシュ使いや(いまの)ウィンドウズ使いからみれば、笑っちゃうようなシロモノ。だって、コピーペーストできるのは、基本的に字だけ、なんだもん。絵とか、グラフとか、マックやウィンドウズであたりまえのようにできるコピペが、Unix系だと未だにできないんだよ。いまようやく、それをなんとかしようという動きが出てきた。でも、まだまだ標準的とは言えない。古参のUnixの人たちは「グラフィック環境なんかいらないよ、あんなのは人を堕落させるだけだ」と強がるけれど、負け惜しみでしかないな。

 安くてそこそこ高速なハードと、不安定でも段違いに使いやすいソフト。ワークステーションで太刀打ちできるわけがない。メーカーはどんどんつぶれ、マイクロソフトがパソコン業界を制圧し、そしてUnix系のオペレーティングシステムは21世紀には残らないんじゃないか、と思われた時期もある。  が、それをひっくり返す事態が起きた。それが、インターネットというやつだった。そしてそれは、Unix系オペレーティングシステムの復権につながる動きだった。そしてそれとともに、Unix系OSの持っていたある思想が急速にクローズアップされてきた。

 そのほかにも、いろんなマシンやオペレーティングシステムがあった(いまもある)。変なことしかできない異様なマシン、アミーガ。国産OSの夢を担いつつも諸般の事情で、機器組み込み以外には普及しなかったTRON(注:坂村建らが中心になって開発されたオペレーティングシステム。日米貿易交渉の過程で、アメリカに押さえ込まれたために一般には普及しなかったと言われるけれど、実際はどうなんだろう。TRON住宅とかTRON自動車とかTRON電気炊飯器とかTRON押すだけ電子ジャーとか、生活のあらゆる面をTRONで制御、というのが売りだったけれど、逆にそうやってあまりにフルセット型をねらいすぎたのも敗因のような気はする。さらに坂村建は、TRONは仕様完全公開でLinuxと同じくフリーだ、と主張する。でも実際にTRONが普及していたら、そうなっていただろうか。ぼくはなってなかったと思う。そういう状況でだれかがフリーのTRONを作ろうとしたら、日本の閉鎖的な役所と業界はあらゆる手でそれをつぶしただろう。利権が入り込んで、異様に縛りの大きい不自由なものになり果てていたと思う)。マッキントッシュ的なエレガントさとUnixの自由さを両立させようとしたBeOSとか。が、ここでは紹介しきれないや。残念。

 というわけで、次回からは、インターネットとその前段のネットワークの話をしようね。そのなかでUnix自体の詳しい話と、その思想の話もしようか。同時に、中身もちょっと連載本来の、「コンピュータのきもち」の話に戻そうね。では。


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