Valid XHTML 1.0!

ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第5回:コンピュータだって、痛いかもしれない。

Valid XHTML 1.0!

(ascii.PC 2001 年10月号)
山形浩生



 高校時代のぼくの友人に天才がいた。かれをコンピュータの道に引き込んだのはぼくだったんだけれど、こいつは化け物だった。最初はオームの法則も知らずにいきなりコンピュータ自作に挑戦して、100ボルトの電源配線を、細い電子配線用の電線でやったりしたもんだから、コンセントにつないだとたんに電線が溶けて火を噴いて、火事を起こすところだった、とかいろいろ笑えることをやってくれたっけ。ちなみにコンピュータの自作といって、いまのままごとみたいな組み立てごっこたぁわけがちがう。ねじでとめてコネクタを差し込むだけで、ハンダごても使えねぇのに自作を名乗るやつは、はんだペーストでも煎じて飲むが……あ、いや、そっちのネタはやめとこうね。

 しかしこいつは、そういう素人丸出しの段階から、ものの数ヶ月で電子回路の基礎をマスターし、異様なマシンを作るようになっていたのだった。そしてその数ヶ月後には、なんとProlog(人工知能用のプログラミング言語だと思って)を自分でつくって雑誌に載せたりしていた。ぼくは戦慄したね。世の中には本当に天才ってもんがいて、自分とはまったくレベルのちがう頭の働きをしているんだ、と悟ったのはその時だった。

 またこいつはちょっと変わった信念を持っていた。すべての人間には、寿命を決める糸が背中に生えているのだ、という。そして、その糸がループになると、その輪っかになった部分がぽろっと落ちる。たとえば電柱を一週したりすると、それで糸が1メートルくらい短くなるんだって。そしてその糸が尽きたとき――その人の寿命も尽きる。だからかれは、回り道をいやがった。山手線一周なんかしようものなら、それだけで寿命が半年は縮む。だからこいつはいつもきた道をその通りに帰りたがった。それがどんなに大回りになろうとも。天才はおかしなやつが多いとか、ナントカとは紙一重とかいう俗説があるけれど、うん、意外と本当かもしれないと思ったのもこいつを見てのこと。

 そしてぼくは、そいつが力説していたことを忘れないだろう。あれはかれがコンピュータをおぼえたごく初期、そいつがいきなりこう言い出した。「ねえ山形君、ぼくは自分とコンピュータがおんなじだってことがわかったんだ!」面食らうぼくにはおかまいなしに、そいつはこう続けた。「実は昨日、夢を見たんだ。自分が小さな箱で、そこに外からセンサーがたくさんのびてきている。そしてぼくが外の世界について見たり聞いたりしていると思ってることはすべて、そのセンサーからの信号でしかないんだよ! ぼくがあると思っている世界は、ホントはないかもしれないんだよ! ぼくがコンピュータにうその信号を入れてやっても、コンピュータにはそれがわからないのと同じなんだ! でも、ぼくは絶対にそれに気がつけないんだよ。こうやって、腕をつねると痛いのも、腕というセンサーから信号が伝えられるだけで、実際には脳がその信号を処理して痛いと判断しているだけなんだ!」

 うひゃー。ぼくは当時、すべては幻想である((c)岸田秀)とか、胡蝶の夢((c)荘子)とかディックであるとかその手の話にはまっていたので、結構その発想には惹かれたのではあるけれど、まさかそれを夢のお告げで真顔で言うやつがいるとは思わなかった。どうしようか。でもふつう、こういう発想に入ると部屋にこもって鬱になったり、「ぼくもマトリックスから逃げ出して日本のゲームデザイナーに生まれ変わるんだ!」とかわけのわからないことを言って自殺したりするもんだときいていたけれど、それにしちゃ、こいつはえらく嬉しそうではないか。

 うーむ。

*  *  *  *  *

 しかしながら、かれが言ったことは実はとっても正しい。少なくともコンピュータにとっては。というわけで、今回はそういう話だ。

 何回か前に、「コンピュータは間の箱だ」という話をした。さてそこでの問題は、何の間か、ということだ。そのときにはキーボードとディスプレイの間、と言った。でも実際に近くにあるコンピュータを見てみよう。いろいろ他につながっているものがある。コンセント……はまあ別にしよう。でもそれ以外にもマウスでしょ。プリンタでしょ。スキャナ、スピーカー、モデムでしょ。外付けのハードディスクやCD-ROMドライブでしょ。「間の箱」から、こういうものに線がのびている。そしてコンピュータにとっては、それが世界のすべてだ。それらから信号を受け取ったり、あるいはそこに信号を送ったりする。コンピュータにとっての世界は、それしかない。それはまさに、友達が夢に見た箱の世界なのだ。ぼくのコンピュータにはマイクがついていないから、このコンピュータにとっては外の世界で「音がしている」という概念はない。

そしてここでの、センサとかディスクとかスピーカーとか、本体以外の部分すべてを、周辺機器、または入出力装置、というふうに表現するのだ。

さて。新しい周辺機器(たとえばプリンタとかスキャナとか)を買ってきて線をつないでも、そのままじゃ使えないことは知っている人も多いだろう。これは人間でも実は同じだ。ときどき、ずっと目の見えなかった人が手術を受けて、病院のベッドで包帯がとれたとたん「見える!見えるぞ! お、お母さん」とか言ってみんなで抱き合って涙を流す、というような映画やテレビがあるけれど、そんなことは実際には起きない。その人は見えるってのがどういうことか知らないからなのだ。ぼくたちが自然にやる「見る」という行為すら、すさまじい学習と訓練の成果だ。

コンピュータでその学習と訓練にあたるのが、周辺機器を新しくつないだときに必ず出てくる「ドライバのインストール」ってやつだ。このドライバには、データがどういうふうに入ってきて、それをどう解釈すればいいのか、ということが記録されている。 それを教えてもらうまで、コンピュータは周辺機器からのデータをもらっても、どうしようもない。

でも、実際にそれはどういうふうに処理されているんだろうか?

実はコンピュータにとって、周辺機器は、なんかよくわからないけれど指定の場所に送られてくるデータ、でしかない。さっき言ったドライバというのは「データをやりとりするときにどんな合図をするか」「そのデータはどんな順番でどこに届けるか」というのを決めてある。コンピュータはいつもは、かなを漢字に変換したり、メールを受け取ったり、ファイルを開いたり閉じたりといろいろ忙しい。それに対して、周辺機器は「これからこっちも仕事をします」という合図を送って、それからデータを指定の場所に届けるのだ。そしてコンピュータのCPUは、その合図を見て「これは優先」「これはあとまわし」と序列をつけて処理をしていく。

ときどき、キーボードを打っても、文字が画面に出てこないときがある。そしてしばらくしてから、パラパラっとこれまでの分がまとめて表示される。これは、キーボードからの割り込みの優先順位が低めで、だから仕事があとまわしにされていたわけだ。コンピュータは、もっと大事なことをやっていたんだろう。そしてそれがすんでから、「ああキーボード方面からなんかきてる」と言うことで、キーボードに対応したアドレス領域を読みにいくと、いろいろ文字がたまっていたので、あわててまとめて処理した、ということだ。ネットワークがらみの仕事は、結構その優先順位が高い。ネットがらみのことをやっていると、他があとまわしになってコンピュータの反応が鈍くなることがままある。ある程度コンピュータの中身がわかってくると、その優先順位も頭に入ってくるので、だいたいなぜコンピュータがいまもたもたしてるのか見当がつくようにはなるのだ。

*  *  *  *  *

 というわけで、コンピュータにとっては、周辺機器ってのはこの合図とデータのセットでしかない。コンピュータはひたすら数字が流れてくる世界にすんでいるだけ……なんだが、ここでぼくたちはあの最初の天才の夢に戻る。いったいコンピュータは、その「ひたすら数字が流れてくる」のをどう認識しているんだろうか。ぼくたちの脳だって、やってることは同じじゃないんだろうか。

 それはとってもむずかしい話でもある。ぼくたちは世界をただの信号の束としては認識しない。たとえば、絵の具で青と黄色を混ぜると緑になる。でも、どうしてそれは、青と黄色ではなく、緑、というぜんぜん別の色になるんだろう。光の三原色を混ぜると、それは白になる。でもぼくたちは白をみて、それが赤青緑の混じったものだとは認識しない。

 同じことで、コンピュータが具体的に何を感じているのか、ぼくたちにはわからない。宇宙人が人間の頭をこじ開けて調べたら、「この指をちょん切ると、脳のここらへんに信号が派手にきているなあ」ということはわかるだろう。でもそれが「痛い」という感覚なんだということ、そしてそれがぼくたちにとってどういう意味をもつのかということは、そのうちゅーじんたちにわかるだろうか。目玉を調べると、ああこういう波長の電磁波(光)に反応する部分があるなあ、というのはわかるだろう。でもそこから、ぼくたちにとっての白とか緑とか、そういう感覚はわかるんだろうか。

コンピュータは「痛い」と思うのかもしれない。いきなりコードをひっこぬいたり、印刷中のプリンタのケーブルをうっかり抜いたりすると、ぼくたちにはうかがい知れないなんか「変な」感覚を抱くのかもしれない。そういうことをちょっと考えてみることも、実はコンピュータのきもちを理解するにあたって、とても大事なことなのだ。そして、人間ってなんだろうという、もっと大事なことを考えるためにも。

*  *  *  *  *

 ちなみに、最初のぼくの天才友達の「ぼくもコンピュータもセンサのつながった箱」説に対して、ぼくは確かこう切り返したような記憶がある。

 「でもさ、実際の信号処理をするのが脳なら、どうして痛いのは腕で、脳じゃないわけ? コンピュータはセンサをつぶしても痛がらないじゃない。だからそのセンサと箱の話だけじゃ単純すぎるよぉ」

 たぶん知ってる人は知っているだろう。ぼくは当時、夢野久作『ドグラ・マグラ』を読んだばっかりだったのだけれど、それはここに出てくる議論だ。脳は単に、いろんなものを中継しているだけだ。腕をつねれば腕が痛い。脳が痛覚を処理するなら、なぜ脳が痛くならないの? 痛さを感じ、考えているのは腕だ。それが証拠に、いろんなことを手が覚えているだろう。自分の家の電話番号を、口で言えといわれると時々どわすれするけれど、手は絶対に忘れない。考えるのも記憶も、そのそれぞれの関係器官がやっているのであって、したがってその「箱にセンサからケーブル」説は妥当とは言えないであろうが!

 これに対してぼくの友人は「いや、それもそういう信号が……」と言いながらもちょっとひるんで、その隙にぼくは話題を変えたように記憶している。うひー、幻肢の話とか持ち出されないでよかったー。ちなみに、『ドグラ・マグラ』はこぉんな程度ではまるっきりすまない、すさまじい小説なので、是非若いうちに読んでおいてほしいのだよ。うひひひ。

ただ、実際にこのドグラマグラ的なアプローチというのはある。ひたすら本体にデータを垂れ流す(あるいは受け取る)だけの入出力・周辺機器に対して、CPUだって忙しいんだから、データを送るにしても、そっちである程度整理してからやってくれよ、という考え方はあるわけだ。つまりインテリジェントな周辺機器という発想。いまの周辺機器の多くは、自分でもコンピュータを内蔵していて、本体より高度な処理をしていることも多い。

どっちがいいか、ということはいちがいに言えない。周辺機器が勝手に余計な判断されちゃかえって迷惑、という人もいる。人によっては本体なんかより周辺機器のほうが大事なんだから、本体より周辺機器をずっと賢くしろ、という人さえいる。今後はコンピュータはもっともっと人間のご機嫌うかがいをする「人に優しい」ものになる、だから人間と接する入出力の部分にこそ、もっともっと計算能力をつぎこむべきなんだ、という考え方。これはかなり正しくて、新しいマシンにしたときに「おお、速いぞ!」と人はしばしば感動するんだけれど、これは実はCPUの高速化よりも、画面を表示するグラフィックスカード(ビデオカード)の高速化のおかげという場合がかなりある。ある意味で、高校生のぼくたちが議論しかけていたのは、実はそういう周辺機器とCPUの役割分担論につながる話でもあったんだけれど――でもそれはこの連載のレベルを遙かに超える。

いまあの友人に同じことを言われたら、ぼくはなんと答えるだろうか。うーん……わからない。それはいずれ『人間のき・も・ち』を書くときにでも考えることにしようかね。ではまた来月。


前の号 次の号
ASCII.pc Top  YAMAGATA Hirooトップ


Valid XHTML 1.0!YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>