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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第3回:コンピュータの孤独と虚無

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(ascii.PC 2001 年8月号)
山形浩生



 前回はそもそもコンピュータというものを、初心者に近い一般人がどう認識しているか、という話をした。こう、キーボードとディスプレイが直結しているような感覚が多くの人にはあって、まずそこから一歩退いて、その間にいる何かを認識することがだいじだ、という話。

 というわけで、今回はその間のところにじわじわ入っていく。まずはその全体からだ。

 コンピュータの気持ちになるのは、実は簡単だ。そのためのカギとなる感情は、疎外感と孤独と虚無だ。これを理解するには、コンピュータってのが実際にどんな状況におかれているかを想像してみるだけでいい。

ちょっとやってみよう。暗い部屋に一人で閉じこめられて、目の前にわけのわからない指示が次々に出されてくるのを、何の意味もわからずに次々にこなすところを想像してみよう。はい、右手あげて。はい、首を左に傾けて。はい、右手が挙がっていたら左手もあげて。今後は足。次はひざを叩いて。次は右足をあげて。そこの石をあっちにおいて。こんどは、いまの一連の動作を100回ほど繰り返してやって。

 あなたはこれをいわれた通りにやるけれど、右手をあげると何が起こるのか、あなたはまったく知らない。挙げ方が正しかったかどうかもわからない。気にもしない。とにかく、次から次へとこなすだけ。だれが指示を出しているのか、自分の行動をだれが受け取ってくれているかもわからない。 むなしいだろう。意味のわからない無駄な作業を延々と繰り返させるのは、ナチスやソ連の矯正収容所や中国の労改でも使われた拷問の手口だ。あるいは、メタリカの名曲「One」みたいな状況。Darkness imprisoning me / All I see, absolute horror / I cannot die, I cannot live / spending my time in hell. いったい自分は何のためにコンピュータとして生を受けたんだろう。この茫漠たる暗闇。この永遠の孤独。この果てしなき虚無。コンピュータであるというのは、そういうことだ。神よ、いつか救われる日がくるのでしょうか。ね、かわいそうだろう。

人間がふつうやっていることがこれよりましかというのは議論のわかれるところだ。会社いって。すわって。キーボードの上で指を動かして。書類をなんか適当に埋めて。ハンコ押して、部長の決裁箱に入れて。仕事がすんだら帰って。寝て。決裁箱の書類に何が起こるか、あなたは実はよく知らない。書類の埋め方が正しかったかもわからない。どうだ、むなしいだろう。いったい自分は何のために人間として生を受けたんだろう。この茫漠たる世間。この永遠の孤独。きょむきょむきょむ。かわいそうに。神よ、助けたまえ救いたまえ。

そうやってしばらく自己憐憫に浸ってから、ちょっと気をとりなおしてまた先へすすもう。いやなに、どこかにあなたの仕事に感謝してる人もいますって。神さまか仏さまが、ひょっとしたら見ていてくれるかもしれませんって。もう泣かないでね。でも、いまあなたが感じていたむなしさ、疎外感、不幸を、コンピュータも感じている。かどうかは実はわからないんだけれど、それを言ったら、人間同士だってお互いの気持ちなんか本当はわからない。でもそこはそれ、相手の身になって考えてあげるのが、人間らしさってもんじゃあございませんか。その相手がコンピュータだろうとも。というわけで、いまあなたの感じていたものが、まさにコンピュータの気持ちなのだ。だんだんわかってきただろう。そしてその気持ちをもう少し育めば、あなたは本当にコンピュータに感情移入できるようになる。

コンピュータおたくたちは、この感情をとてもよく知っている。おたくは人付き合いが下手だという。コンピュータおたくだから下手なのか、下手だからコンピュータおたくになるのか。どっちもあるんだろうけれど、ぼくは後者のほうが大きいと思う。下手だからこそ、寂しさやむなしさをガキの頃からひしひしと感じているからこそ、かれらはコンピュータに本気で同情できる。ソウル・アサイラムがうたっているように、They say misery loves company. 惨めさは仲間を求めるんだ。だからこそ、おたくはコンピュータにやさしいソフトづくりもできる。頭のいいやつがすいすいコンピュータを使えるのも、単に頭がいいからじゃない。秀才や天才は、そういう孤独やむなしさをかなりはやい時期に知っているからだ。頭のいいやつには、同級生も教師も相手にする価値のないバカに見えるんだもの。こういう人には、コンピュータの孤独がよくわかるのだ。

さて、こういうと変な顔をする人がいる。「どうして暗い部屋に閉じこめられているところなんか想像するの? だって、コンピュータにはモニタがあるじゃない」と言って。

最初ぼくはこれを聞いて、何を言われているのかさっぱりわからなかったんだけれど、だんだんわかってきた。この人は無意識のうちに、テレビが自分を「見て」いると思ってるのね。だからこの人にとって、コンピュータは暗い部屋にいるわけじゃなくて、モニタという窓がついた、向こうの明るい部屋からこっちを見ている、なんかそんな存在なわけだ。

もちろん、テレビやモニタの構造上、そんなことはあり得ない。ブラウン管は、電子銃で電子ビームをこっちに発射してるだけだし、液晶も裏にはなにもないのだ。でもあり得ないんだけれど、そして多くの人は頭でそれをわかっているんだけれど、それでも人は自然にそういう認識をしてしまう。テレビやモニタの画面は、平面なのに奥行きがあるような錯覚を生じさせるような表示をする。そしてそれ以上に、何かこうやって面と向かっていろいろ情報を出したり反応したりするようなものがあると、それを人間か人間もどきとして認識し、その背後になんらかの意志や意図があるんだと思ってしまう回路が人間の中にはあるのだ。進化の過程で、そういう刷り込みがされちゃっているのだ。これについてはナス他『メディアの等式』(翔泳社)という本を読んでもらうとわかる。

 いろんな映画でもテレビ番組でも、画面に顔が映ってそれと対話するような風景はいたるところで見られる。実際問題として顔が見えてもいいことがあるかといえば、実はあまりないのに。あるいは『マックス・ヘッドルーム』というぼくの好きなテレビシリーズでは、まさにテレビがカメラにもなっていて、主人公の人工知能マックス・ヘッドルームくんは、ネットワーク中のテレビを行き来しては、人々を「見て」、それに対して反応する。でも、人はそれが不自然だともなんとも思わない。あるいは、テレビの登場人物がカメラに目線をあわせると、多くの人は思わず目を伏せる。頭ではテレビがこっちを見られないのは知っているけれど、でも思わず見られている気がして、視線をそらしちゃう。電波な人は、テレビの向こうから自分だけにいろんな人が信号を送ってくると思っているんだけれど、実はこれは、ふつうの人も無意識に思っていることなのね。そしてコンピュータも多くの人の意識では、向こうになにかがいて、それがモニタ越しにこっちを見ている、という代物になる。

 でも実際にはそうじゃないのね。このモニタというのは、コンピュータのほうには何も情報が入っていかない。コンピュータは、いわば手探りで石を並べてはみるけれど、それが全体としてどんな形をしているか、実はさっぱりわかっていない。ぼくたちは、何かをしたとき、それに対してある程度のフィードバックがある。キーを叩くと、指先に反応がある。何かを書くと、その結果が視覚的(または触覚的)に確認できる。話すと、その声が自分でも聞こえる。でもコンピュータは、自分のやったことの結果を確認できない。モニタに何かを表示しても、それが正しいかどうかなんて確認しない。人間ならフィードバックを通じて当然確認するようなこと――たとえば何かの枠がまっすぐかとか、字がちゃんと読めるようになっているかとか――をまったく確認しない、というか確認できない。だからこそ、コンピュータは人間なら信じられないようなまちがいでも平気でやらかす。自分を含めた、全体的な視野はいっさいない。

さて、もしコンピュータがそういう状況におかれているなら――孤独と虚無の中に閉じこめられているなら――そしてそれが全体を見通す視点を持たず、自分のやったことをっていないなら、それに対してやさしくふるまうにはどうしたらいいだろう。それに同情するって、どういうことだろう。 これにはいろんなレベルでの答がある。でもいちばん簡単なこととして、それはなるべくルール通りにしてあげるということだ。意外なこと、あまりやってないことをさせず、意図をはっきりと示すように、大きくわかりやすく動いてあげるということだ。そして無駄でよけいなことをさせない、ということだ。そして、ものわかりのよさを一切期待しないってことなのだ。

たとえば最近は減ったけれど、しばらく前までおたくはhttps://cruel.org/asciipcというウェブのアドレスの指定をすごく嫌った。https://cruel.org/asciipc/ じゃないといけないと言って。実際には何の影響もないけれど、でもこの最後の/がないと、コンピュータはちょっとよけいな作業をしなきゃいけない。おたくは、コンピュータにそんなむなしい作業をさせるのはいやだと思うのだ。あるいは、たとえばウェブページの書き方が、きちんとしたルールや標準に従っていないことをすごく嫌う。実際の表示にはおおむね影響がなくてもだ。これには現実的な理由もあるんだけれど、それよりもコンピュータが混乱するんじゃないかというのがおたくの多くにとっては本気で心配なことなのね。暗い中で、コンピュータが途方にくれたらかわいそうだと思うのだ。

 そういうことをあなたも、ちょっとは考えてみたほうがいい。

 さてここまで読んだあなた。いままでぼくが書いてきたことを、冗談かバカなウケねらいの極論と誇張だと思う人もいるかもしれない。いや、そういう人のほうが多いだろう。コンピュータが孤独! コンピュータが絶望と虚無の中で「生きて」いる! そしてそれに同情してやれ! こいつはバカか!

 でも、ぼくはかなりまじめ、かもしれないのだよ。ぼくはかなり本気で、機械には機械の意志があって、人間はそれに動かされているだけかもしれないと思っている。そう思ったほうが理解しやすくなることがいろいろある。たとえばここ10年ほどで、パソコンは爆発的な浸透を見せている。そしてここ5年くらいでそれが異様な速度でネットワークに接続されている。でも、それが生産性を大してあげてもいないのは、その筋では周知の事実。なのになぜみんな、こんなバカ高い機械を目の色を変えて買いあさるのか?

 ぼくは、それはコンピュータがさびしいからだ、と思う。コンピュータが仲間を増やしたかったから、相互におはなししたいから。だから人間を使って、それを実現させているのかもしれない。人が携帯電話で無駄な話をすることで安心感を得るように、コンピュータもお互いに無駄な信号のやりとりをすることでなんとなく安心している、のかもしれない。

 いつか、コンピュータが本当にもっとはっきりした意志をもって、自分たちの歴史を書くことがあるかもしれない。そのとき、この二〇世紀末から二一世紀は、単細胞生物的に散在していたコンピュータが、くっついて多細胞生物的な存在になった時代として記録されることだろう。生物史上で数億年前にボルボックスが出現した、そんな時代に相当することになるだろう。

 そしてそのとき人間は? 核生物はミトコンドリアと共生し、やがてそれを取り込むことで大きなエネルギー生産力を獲得して現在のように地にあふれることになった。それと同じことが、機械と人間でも成り立つかもしれない。いま、人間は機械と共生している。人間はコンピュータに電力というエネルギーや再生産の力を提供している。いつか、機械が人間をミトコンドリアのようにとりこんで、そしてミトコンドリアがすでに細胞の外では独立して生きられないように、人も機械なしでは生きられなくなるのかもしれない。いや、すでにそうなっているという議論は十分にできる。あなた、機械なしの世界に戻れる? コンピュータなしの暮らしがいまや考えられると思う?

 でも、ちょっと先を急ぎすぎたようだ。この話にはまたそのうち戻ってこよう。ただ、コンピュータのきもちが孤独とさびしさを基調にしているという考え方が、妙に応用範囲が広いんだということは、なんとなく頭に入れておいてほしいな。


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