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ascii.PC 連載 コンピュータのき・も・ち

――あるいは How to be an Computer Otaku

連載第1回:なぜパソコンはこんなにめんどうでわかりにくいのか、またはおたくの罪

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(ascii.PC 2001 年6月号)
山形浩生



 ようこそ。とはいったものの、あなたはいったいだれだろう。

 たぶん、とぼくは思うのだ。この連載を読むことになる人の多くは、たぶんコンピュータにぜんぜんさわったことがないわけじゃないだろうと思う。こんな雑誌を読もうというくらいだから、コンピュータがいじれるようになんなきゃ、という危機感か、または興味みたいなものはあるんだろう。さらにまあこれだけコンピュータがあちこちで使われているから、会社とかで、言われた通りカチカチやると勝手にメールとかがたちあがるとか、なんかよくわかんないけど、一応表計算のソフトに数字を入れたり字を入れたりはできます、という人も多いはずだ。まがりなりにも、ワープロソフトで文書らしきものは作れます、とか。

 でも、そこから先に進めない人がいる、ということに、ぼくは最近になってやっと気がついてきた。この連載は、そういう人がちょっと先に進むためのものとして書かれることになる。

 いや、むかしぼくは、こんな連載はなくていいんじゃないかな、と思っていた。怖いもの知らずの子供ならさておき、最初はおっかなびっくりなのは仕方ない。人は、なにかニーズがないと動かないものだし、ぼくだってそういう時期を経て今にいたっている。でもやがてそこからだんだん慣れていって、平気な顔をして使いこなせるだろう、と。同時に、そのうちコンピュータのほうが進歩して、もっともっと人をサポートしてくれるようになって、素人でもホイホイとコンピュータが使えるような状況がくるだろう。そうやって、自然にいろんなギャップが解消されて、パソコン音痴なんていうのは、電話音痴というのと同じくらいアナクロな代物に自然になっていくだろう、と。

 でも、パソコンなんてものがあちこちのオフィスに入り出してからはや10年近く。一向にそうなってくれない。これは、両方とも悪い。まず、使う側はいつまでたってもおっかなびっくりで、いままでとちょっとちがったことをやってもらおうとするとすぐに振り出しに逆戻りだ。ちょっとずつ自分で技を増やすとか、いくつかの現象から類推してくれるとか、自分で探してみるとか、そういうことをしてくれない。一方のコンピュータのほうも、まったくしょうもない。ぜんぜん使いやすくならないどころか、ますますややこしくてどうでもいいものを増やす方向にばっかり動いている。

 まったく、なんでこんな事態になっておるのよ、というところからこの連載は始まっておるのだ。そして後者の、コンピュータがいつまでたっても改良されないのはまあ仕方ないけれど(でもメーカー関係者はなんとかしろよ)、前者の人間のほうをちょーっとばかりなんとかしようか、というようなことを、ここでは少しもくろんでおるのだ。

 さて、なんでこんな事態になっておるのよ。

 その原因の一つは、人間的なものだ。そしてもう一つ、歴史的なものでもある。そしてこの両者はからみあっているのだ。それが今回のお話。

 その昔、コンピュータというのは非力(いまの感覚からすれば)なくせに、えらく高かったわけでございますな。したがいまして、コンピュータを使う人のいちばんの仕事というのは、コンピュータをいかにしてフルに稼働させるか、ということになっていたわけ。コンピュータを遊ばせるというのは、むかしのコンピュータ屋にとっては死罪に等しい怠慢。かといって、むちゃくちゃ仕事をつめこめばいいってもんでもない。むかしのコンピュータは能力が低かったから、ちょっと仕事をさせるとすぐにあっぷあっぷする。そこで負荷をうまく分散して……というのはつまり、人間のほうに行列させたりして、コンピュータの都合にあわせて仕事をやっていただく、というようなことをやっていたわけだ。人が何か、コンピュータに計算をさせようとしても、「コンピュータさまはただいまご多忙中なので、夜中になったら出直しておいで」とか「こっちで並んで呼ぶまで待ってなさい」とかいうことを、人間のほうにやらせる。そして人間のほうは、なるべくコンピュータさまに負担にならないようにいっしょうけんめい知恵をしぼる、というのがだいじなお仕事だったわけ。いや、ほんの数十年前は、そういうものだったのだ。

 そして、環境は人をつくる、のである。そういう環境に適応した形質を備えた遺伝子を持つ人々がだんだん増殖してきた……というのはウソだけれど、でもそういう能力にすごく長じた連中というのが、あちこちに出現するようになってきたのは事実。

 これがいわゆる一つの、コンピュータおたく、というやつだ。

 このおたくたちは、実に見事にコンピュータに適応した。かれらの最大の特徴は、コンピュータの身になれる、ということだ。コンピュータがいっしょうけんめい計算をしているとき、かれらはそれを我が身のことのように感じていっしょにのたうちまわる。プログラムを見るとき、この人たちはかけめぐるデータや数値や、そういうものが肉体的に想像できて、そのデータといっしょに自分がコンピュータの中をかけめぐれる。映画『マトリックス』のラストで、主人公は世界が緑色の数字がピロピロ流れているように見えてしまう。そして「アイ・アム・ザ・ワン!(おれが救世主だぁ)」と確信するのだけれど、おたくはコンピュータを前にすると、まさにああいう世界が眼前に広がっているのだ、と思ってくれぃ。文字通りじゃないけれど、なんとなくああいう気分なのだ。アイ・アム・ザ・ワン! である。

 だがもちろん、コンピュータの身になれるやつは、往々にしてそれ以外の人間の気持ちがあまりよくわからない。おたくに恋人ができにくい原因もそこにあるし、あなたがコンピュータの操作でまごまごしていると、かれらが露骨に(ほとんど生理的に)いやな顔を見せるのもそのせいだ。かれらには、あなたがなぜわからないかがわからないからだ。かれらは(ぼくは)いつも思っている。そんなこと、ちょっとコンピュータの身になればすぐわかることじゃないか。ファイルってもののあり方を考えたら、あたりまえじゃないか。ネットワークの仕組みを考えれば、すぐに見当つきそうなものだ。かれらにとって、あなたはあの緑のピロピロを乱す悪いやつであり、交差点の真ん中で左右どっちに曲がるべきか迷っている素人ドライバーに等しい迷惑な存在だ。『マトリックス』の主人公たちは、マトリックスにとらわれている連中は再起不能だから殺したっていい、殺すしかないと思っていたでしょう(考えてみりゃ、ひっでえ設定だな)。けれど、おたくたちも、それに近い感情をあなたに対して持っている。

 さてその後、コンピュータのほうはどんどん数も能力も増えてきた。いまやコンピュータは平気な顔をして遊んでいる。いまのパソコンは、むかしの大型計算機並の能力を持つといわれるけれど、それが99%遊んでいる。その遊んでいる力を、もっと有効に使えれば……ところが困ったことに、コンピュータを設計し、コンピュータ用にいろんなソフトを書いて、それを管理しているのは、相変わらずコンピュータの身になってものを考えてしまうおたくたちだったりする。

 それが諸悪、ではないけれど、多少の悪の根元だ。コンピュータは、かれらの感覚にあわせて、かれらの価値観でつくられている。それが一般人にとっては、かなり常識から遠い代物になっていても。

 こういうおたくどもには、特殊な能力があることがわかっている。連中は、記憶力はいい。特に、空間的な記憶力。おたくの多くは、すさまじく汚い机をしていて、それでもまあいろんなものをなくしもせずに、ゴミの山としか思えないものから器用にいろいろ書類をひっぱり出して仕事をしたりする。あれは、かれらが空間的な記憶力にたけているからだ。かれらは、それにあわせてコンピュータをつくる。

  たとえばあのメニューというやつ。よく、まわりのおたくにものを聞くと、「あのメニューの、あそこらへんに、なんとかいうチェックボックスがあって、そこの隣のなんとか云々」という説明をだだだっとされて、何がなんやらわからなくなった人は多いと思う。でも、おたく同士ではそれが十分に通じている。なぜかというと、かれらはメニューの広がりを、空間的に把握しているから。厳密な場所がわからなくても「二階のあそこらへんね」というのさえ理解できれば、話が通じる。いろんなコマンドを覚える能力も、ある種の空間的な能力だ。言語っていうのは、意味の空間をことばで切り分けることなのね。昔、何でも記憶できます、という曲芸師たちがいた。かれらの「記憶術」は、記憶を身のまわりの場所に割り付けることで成立していた。おたくたちも、そういう曲芸ができている。「なんとかフォルダの中のなんとかフォルダの中のナントカフォルダのなかのなんとかファイルの真ん中あたり」なんてことを平然と言えるのも、そういう曲芸能力あればこそ。

 おたくたちがコンピュータに詳しい理由はもう一つある。おたくたち(ぼくとか)は段階的にコンピュータに入ってきたってことだ。だから、いろんなものがなぜ存在しているかが身にしみてわかっている。昔はコンピュータというと二進法で、いっぱい並んだスイッチでプログラムを入力していた。表示は、豆電球が8個ならんでいるだけ。だからその後、電卓みたいなキーボードや数字表示が出てきたときには、文明の偉大さで頭がくらくらした。キーボードとテレビモニタが出てきた時には、ワタクシなどにこんなものを使わせていただけるとはもったいのうございます、とひれ伏したい気分だった。フロッピーディスクが出てきたとき、一枚140KB も入るディスクなんて、一枚で一生もつぞと狂喜したし(一ヶ月でいっぱいになった)、それがだんだんたまって収拾がつかなくなったときに10MBのハードディスクが出てきて(冷蔵庫くらいでかかった)、そのすばらしさに思わず射精しそうになったほど(ちょっと誇張あり)。

 だからぼくは、それぞれのものがどういうニーズに応えて登場してきたのかが、肉体的にわかっている。いまのパソコンがなぜいまのようになっているか、痛いほどわかるし、それ以外の可能性に頭がまわらなくなっちゃってる。それは、おたく以外の人にとっても不幸だし、たぶん当のおたくたちにとっても不幸、なのかもしれないけれど。まあしょうがない。そのうち、本当に人間の身になった、コンピュータさまではなく人間にあわせたコンピュータが作られることになるかもしれない。いま、パソコンは画面に出た絵をかちかちクリックしたりして操作するけれど、それは本当に革命的なことだった(そして多くのおたくたちは、それに反対した)。いずれ、それに匹敵する徹底的なコンピュータ革命が起きる可能性は、ないわけじゃない。起きてほしいと思う。

 ただ、今日明日には起きないだろう。

 いまのコンピュータは、コンピュータの身になって作られている。そして当分、その状況は続くだろう。だから、くやしいかもしれないけれど、この目の前の機械の都合ってのがどんなものなのかを、一度考えてやらなきゃいけない。そういうと、なんかずいぶんむずかしいようなことに思えるけれど、実はそんなに大したことじゃない。車の細かいフュエル・インジェクション方式は知らなくても、サスペンションの詳細は知らなくても、車の仕組みがわかると、車両感覚ってやつが出てくる。アクセルとエンジンの関係がなんとなく想像がつくし、エンジン音からラジエータやオイルの様子が伝わってきたりするし、路面の様子が、ハンドルや、タイヤ・ブレーキを通じて感じられるようになってくる。必要なのは、そういう感覚だ。

  それをこれから説明してみよう。コンピュータの身になってコンピュータを考えるってのは、どういうことなのか、いまのコンピュータを自信をもって使いこなすには、それがある程度わかんなきゃいけない。そのための発想方法を解説してみよう。

 次回はまず、コンピュータの中でぼくたちに直接関係してくる部分だ。キーボード、マウス、そしてディスプレイ。キーボードっていうのが、あのかちゃかちゃみんながうれしそうに叩いてるローマ字のついたもので、ディスプレイってのがあの字とか絵とか出てくるテレビみたいなものだ、というくらいのことはわかっておいてね。じゃあまた。


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