Valid XHTML + RDFa cc-by-sa-licese

朝日新聞書評 2011/4-6

山形浩生

 

カーネマン(友野編)『ダニエル・カーネマン心理と経済を語る』(楽工社)

 人間の心理は、時に奇妙なよじれを見せる。評者は十万円もらっても売らない本を持っているが、それを盗まれても五万円で買い直すかわからない。売るのと買うので価値評価がちがうのだ。

 同じものの価値が状況によって変わる――朝三暮四のサルを笑えない! これは従来の経済学では想定外の事態だ。カーネマンは、それを実証的に示し、行動経済学という新分野の先鞭をつけた。本書は、そのカーネマンのノーベル経済学賞受賞講演と自伝、そして論文二編を収録し、業績を一望できる日本独自編纂の一冊だ。

 カーネマン自身の解説で、自分を実験台に各種知見を確認できるし、著者がその知見に到達するまでのエピソードも秀逸。初めて触れる人でも楽しく勉強できるはず。

 訳はきれいだし、監訳者の解説もポイントを抑えていて有益。欲をいえば、現実への応用について紹介がもっとほしかった。著者や監訳者の嘆く、行動経済学が既存経済学を全否定するという誤解は、具体的な応用が見えにくいせいもあるのだから。

 たとえば国民に自由意思で健康保険に入ってほしい場合、「みんな健康保険入ろう!」と言うより「全員保険に登録しとくけど、やめたい人はお好きに」と言ったほうが、同じ保険でも最終的な加入者はずっと増える。行動経済学の応用は様々だが、何よりこうした政策の提示手法面で大きな示唆を与えるはず。それがわかれば、既存の経済学を否定するより補完するものだと納得しやすいと思う。

 また巻末の二論文は、人間の幸福という大テーマに挑む。かれの最近の研究結果では、人間は所得が上がっても幸福は頭打ちだが、人生への満足度は上がるとか。幸福でないが人生に満足しているって、どういう状態? 哲学的な問題としても奥深いし、己の人生を見直す契機になるやもしれませんぞ。(2011/04/03 掲載, 朝日新聞サイト)

(コメント:カーネマンが経済学者というより心理学者畑だという話をちゃんとする余裕がなかった。いまや 800 字よりさらに短い 767 字で、締め付けが厳しい……。)
 

ナボコフ『ローラのオリジナル』(作品社)&秋草秀一郎『ナボコフ 訳すのは「私」』(東京大学出版会)

 ナボコフは二十世紀後半の大作家だが、一般受けはしにくい。感情移入やドラマ重視の読み方を軽蔑した彼の作品は、ことばやイメージの断片が記憶と戯れ、連想の鍵を開ける中で変によじれる。最初は見どころが見当もつかない。

 が、その助けになりそうな本が二冊。まずは未刊の遺作『ローラのオリジナル』。著者が死後焼却を命じていた草稿カードの束とその翻訳だ。

 草稿なので、全体像はあいまいだ。が、その分ナボコフが重視した細部のしかけは見えやすい。さらに訳者は、各種の推理を動員して小説全体の復元を試みつつ、微細なポイントも詳しく解説してくれる。だじゃれ、他作品の連想と異様な構成――各種のツボの熱気あふれる説明は我が国有数のナボコフィアンたる訳者の手柄。が……

 一方でそれはナボコフ読みの落とし穴をも示す。訳者はナボコフ作品を一人遊びの快楽ともてはやす。何だか高校時代に『ロリータ』をおかずに試み萎えふけった後ろ暗い悪徳が連想されてしまうが、訳者の読みも時に、それに通ずるひとりよがりに読める。

 これに対し『ナボコフ 訳すのは「私」』は、ナボコフ自身が露英訳した自作を比較することで、その小説観を客観的に解き明かす野心的な試みだ。奇妙な翻訳観を持つナボコフが、造語まで動員して保存しようとしたのは何だったか? 特に謎の植物ラセモーサを巡る分析は出色。そこでしばしば指摘されるのは、言語的な技巧の奥にひっそりと描かれた登場人物の想いだ。それは技巧にばかり耽溺する読者の独善的な軽薄さをたしなめるものでもある。

 いずれも、ナボコフの小説で戸惑った経験者におすすめ。手探りの闇を脱し、一人遊びの快楽へと導く微光が見えるだろう。とはいえ、それに敢えて手を出すかは、読者諸賢のご判断次第だが……。(2011/04/24 掲載, 朝日新聞サイト)

(コメント:ナボコフ二冊、合わせ技を試したが、いやこの字数では骨ばかり。しかし秋草本のほうは、タイトルもう少しなんとかならなかったのか。あと後書きはちょいと自意識過剰だが、処女作故の気持ちの昂ぶりにすぎないと信じたい。
 あと、若島正のひとりよがりというのは、大したことない話でやたらに大騒ぎするところ。一人遊びはすばらしい、ナボコフわからないやつは遊んだことのない哀れなやつ、とか言うんだが (pp.208-9) 、遊びにもいろいろあるんだしぃ。プリキュアフィギュアをコンプリートしたやつが「これぞ真の遊びの醍醐味よ、この絶対領域の機微はそこらのやつにわかるまいて、イヒヒヒ」と言ってるのと同質。ぼくはナボコフ遊びが多少はわかるつもりだが、密やかな愉しみで、ホントは他人に誇示するもんじゃない。そこになまじ「ブンガク」というお墨付きがついたのが不幸な面もある。
 また作中に、ペットに長いひもをつけて散歩させてたら、それがヘビっぽく見えた、という部分があるんだが、若島はナボコフが理由もなく「長すぎる」ひもなんて言うわけないからわくわくするんだって。長すぎるひもくらい、普通に言うと思うけど? そしてその後のヘビというのが何のことか一瞬分からないが、それに気がつくとナボコフの仕掛けに驚嘆しちゃうスッゲー、と騒ぎ立てるんだけど (pp.209-10)、長すぎるひも --> ヘビの連想がそんなに意外? だれでも気づくありきたりな比喩だと思うなあ。そういうので騒がれると、この小説ってそんなにネタがないのか、とかえって醒めてしまうんですけど……。そういうところさえ目をつぶれば、とてもよい解説なんだけど。)
 

横田増生『ユニクロ帝国の光と影』(文藝春秋)

 本書は奇妙な本だ。著者の執筆意図を完全に裏切る形で、見事な企業分析になってしまっているのだから。

 ユニクロは短期間で国民的ブランドにのしあがった。著者の主な意図は、その急成長の裏にある影の描出だ。では、その恐るべき暗部とは?

 なんとユニクロは、中国の工場に徹底した品質改善とコスト低下を要求して泣かせているぞ!

 まあ、なんてひどい業者いじめ……かな? その工場は見返りに、ユニクロからの大量発注の恩恵を得ているのに。顧客の無理難題に悩むのは、ぼくの勤務先を含む全企業の宿命だ。むしろこれは、優れた品質コスト管理では?

 あとはなになに、店舗同士で競争させ、抜き打ち視察で監督するから従業員は気が休まらない! 光の影に残酷な労働者いじめ? いや立派な店舗労務管理でしょ。

 こんな具合。著者の言うユニクロの影はどれも、ぼくには経営の基本に忠実な、光に思えてしまう。これは著者の前著にもあった傾向だ。

 また欧州アパレルの雄ザラとの対比による非正規雇用過多の指摘は、日欧の労働法制度の差もあるのでは? それに企業の最適解は一つじゃない。さらにワンマン経営すぎて後継者不在という批判は、経営者像として示唆的だしゴシップ的には楽しいが、最終的にはご当人の勝手だ。

 結局ユニクロの闇をえぐろうとする本書は、著者の価値観を共有しない人には、ひねりすぎた賞賛本にすら見えてしまう。批判的な視点ゆえに結論以外の記述は信用でき、取材も深い。結果として同社の戦略が鮮明に出た好著になったのは、皮肉ながらもありがたい収穫だ。

 だからジューシーな醜聞を期待した人は失望必至。著者は不本意だろうが、ユニクロの長所を真摯に学びたい人(特に新入社員!)こそ手にとってほしい。嫌味ぬきで、勉強になります。(2011/05/01 掲載, 朝日新聞サイト)

(コメント:なんだかこうして見ると、改行だらけの宇能鴻一郎のポルノ小説みたいだが、一行 13 字のレイアウトだとそんなに変に見えなかった(追記:その後ゲラで手を入れたら、改行も減った)。
 書ききれなかった点の一つとして、ザラの取材は傍証でしかないにしても本当に薄っぺらくてがっかり。ユニクロにはあれだけ勘ぐっておいて、ザラでは親分の建前トーク鵜呑み。あと、帯にユニクロが取材陣に対し「社長に謝れ」と言ったと書かれているので、本当にヤバいネタを書いてしまったのかと期待したんだが、実は単にパパラッチ式の早朝突撃取材を怒られただけ。しかも柳井はその後、著者たちのインタビューにきちんと応じている。立派なもんだ。
 なお、ネット上で見ると、多くの人はもちろんまともな読み取りができず、著者の主張を額面通りに受け取るだけだが、一方でかなりいい書評も出ていて、これなんか参考になる。材料とか調達の話は、触れたかったけれどスペースがなかったんだよね。また前著の批判も当初はもっと多かったが削らざるを得なかった。基本的には、この Amazon レビューが述べている通り。)
 

堀田 典裕『自動車と建築』(河出書房新社)

 戦後の急速な自動車化は、日本の社会と風景を一変させた。高速道路や給油所等の新施設が続々登場し、人間生活自体が揺らぐ。本書はこれに対する若手中堅の建築家たちの、新工法を駆使した果敢な提案群を見渡す。

 その提案は「黴菌」として車を嫌悪する段階から、やがて人車共存の新たな文明像を含む壮大なものにまで発展した。その力強さは今なお感動的だ。世界共通の問題であったが故に、車との苦闘が生んだ構想力は、かれらを世界的建築家として開花させた。その活躍の場を与えた当時の官民事業者の英断にも感心。

 コンパクトな一冊ながら目配りは広く、対象は車関連施設にとどまらない。流体としての車や床面の位置づけなど、全体をまとめる概念も慧眼だ。隠居じみた車否定や文明批判に走らない筆致は、安易な自然への迎合を否定した本書の建築家たちの自信とも響き合い、大きな課題不在のまま外皮造形に拘泥しがちな現代の建築をも照射する。(2011/05/22 掲載, 朝日新聞サイト)

(コメント:よい本。それに、本当に戦後すぐの時期から若手建築家がこうした新しい試みに関わり、その中でその後の世界に通じる解を作ってきたのだとわかるあたりは、安易に重鎮に頼りたがる昨今の状況からするとうらやましい限り。)
 

小野原教子『闘う衣服』&山本耀司・満田愛『MY DEAR BOMB』

 衣服は防寒など機能だけのものではなく、当然ながら着る人の社会的な立場や階級も伝える。暑いのにスーツを着るのはまじめなビジネスマン、という具合に。

 でもなぜ、スーツはビジネスマンの印なのか? 小野原教子『闘う衣服』はロラン・バルト『モードの体系』を援用してそれを記号論的に分析した本だ。そこには暗黙の前提がある。服そのものは布キレに過ぎず、意味はない。雑誌などのメディアが作るファッションや流行が、衣服の外にある社会文化的な意味を、衣服に対応づける。いわば人々を洗脳するのだ。

 本書はまずバルトに倣い、雑誌の記述でその対応付けの仕掛けを例示する。そしてヴィヴィアン・ウェストウッドの服飾デザインの推移や力道山の装い分析で、衣服が持つ意味づけを通じた文化的アイデンティティ構築の手法を示す。さらに女子プロレス分析(ちなみにバルトもプロレス分析で名高い)ではその前提を半歩越えて、コスチュームの意味づけの変遷と、女子プロ興業自体のあいまいな地位との相互作用を示す。目新しい知見ばかりではないが、それを衣服の観点から裏付けることで、本書は対象とファッションの双方に新しい光を当て得ている(マンガは不要だと思うが)。

 この前提はファッションの宿痾だ。山本耀司&満田愛『MY DEAR BOMB』は、それを敢えて黙殺し、服それ自体による意味生成を語り、一方では既存の意味づけを壊す服の夢を語る。それがじきに新しい意味づけに回収されることも、山本は百も承知なのだが。読者を無視するようで実は極度に意識した独白調は、時に気障すぎて苛立たしい。だがそれは、その両義的な立場の表現でもある。本書はかように文体や造本まで動員し、外的な意味づけとの静かな葛藤を描く。それこそ山本への国際的評価の一因でもある。

 だが『闘う衣服』が最後に扱うゴスロリファッションは、べつの形でこの前提を超える。ゴスロリは外の意味を参照しない、意匠だけのフェティッシュだ。なのにその装いに「アイデンティティ」を感じる人々すらいるとは? 著者もまだそれを整理しきれず、つい外部の意味を求めて日本自体がファッショナブルだと結論づけたのは強引。だが、対象にのめりこんだ詳細な記述は魅力的で、この対象の奥深さを十二分に伺わせる。いずれバルトの静的な記述を超えそうな洞察も多く、今後に大期待だ。そしてその未整理な部分も含めて、外部からの意味づけとそれ自体の価値の間を揺れ動くファッションの本質について、この二冊は立場や記述こそちがえ、実は奇妙に似通った相貌を描き出しているのだ。(2011/06/12 掲載, 朝日新聞サイト)

(コメント:どっちをやろうか迷ったあげく、結局両方やった。その過程でバルト『モードの体系』を初めてきちんと読んだんだが、バルトがやろうとしていることはおもしろい。ある年のファッションについて雑誌記事をもとに分析すると称し、あれこれ能書きをたれつつ、ブラウス、ワンピース、スカート等々を羅列、それについて、袖の長短、飾りの多少、ひだの多少、といった具合に語彙を羅列する。それをすべてやると、ある意味でモードの母集団というかそうした語彙の数 n で形成される、ファッションの n 次元空間みたいなのが定義できる。その中でいまのファッションがどこに分布し、それが外部の何と対応して……といったことをやりたかったんだろう。
 でも実際には、あれこれ語彙を抽出したところで止まってしまい、きわめて中途半端。静的な構造分析の常として「その通りかもしれないけど、それで?」という話にとどまっている。あとは野放図な記述のおもしろさだけの本だった。
 小野原の本は、それを真似てはいるんだが、ファッション空間をきちんと定義したりその中の推移を見たり、というバルトの活動を先に進めることはできておらず、それが不満。それがないと、おおむねみんな知っていることをむずかしく言い直しただけに終わる。むしろ本書のおもしろさは、ゴスロリの分析でこのレビューに書いた「前提」が崩れて著者が支離滅裂になっているところにある。そこにこそ今後の重要なカギがある。それは著者の課題であるとともに、たぶんまだ当時悪い意味でのアカだったロラン・バルトがやろうとしていた、資本主義市場経済批判に本当につながる道でもあるんだけど。
 山本耀司本は、なんで岩波なの? 最初はフェルディナント山口氏に読ませて女に貢がせる作法について論じていただき、日経アソシエのレビューに使えないかと思っていたが、フェル山氏がこの文体に挫折して断念。でもデザイナーなんて、このくらいナルシズムがないとやってられないのかもねー。当初、この一冊だけとりあげてスカスカのタイポグラフィみたいな書評をやり、朝日誌面をオモチャにしたいと思ったんだが、まだそこまで度胸はなかった。)
 最初、760 字で書いたら 1,100 字にしろと言われて翌週まわし。その間に山本耀司はフランスの勲章をもらった。全体の構成は同じだが、デザイナーと言わずヴィヴィアン・ウェストウッドときちんと言える(760 字の原稿で、名前だけで 15 文字も使うわけにいかないでしょ)とか、少しわかりやすくなり、ラストのつなぎかたもほんの少し自然になった。



朝日書評 (第 2 期)一覧 書評 2011/7-9 --> 山形日本語トップ


YAMAGATA Hiroo<hiyori13@alum.mit.edu>
Valid XHTML + RDFa Creative Commons License
朝日新聞書評 2011/4-6 by hiroo yamagata is licensed under a
Creative Commons 表示-継承 2.1 日本 License.