朝日新聞書評 2003/01-03

 

ウラジーミル・ナボコフ『透明な対象』(国書刊行会)

 『透明な対象』のような単ならぬ小説だけにしかならないたぐいの小説を解き述べるのは、とても大変だ。ごらん。お話がとっくに始まっているところから展開し、とまどうほど唐突に幕を閉じるのだもの。「どんなお話なの?」と読者は尋ねるだろう。うん、それは主人公がスイスの思い出のホテルを訪ねたら、火事で死んじゃって、ぼくたちの仲間に加わるというだけの話だ。ある人は「おまえはすでに死んでいる」と述べたけれど、この本では死してなお、ぼくたちを眺め続けるものたちがいる。透明な対象として。まあ、気楽に行こうぜ。

 もう少し親切に説明しようか。かれがヨーロッパにきたのは四回目。奇遇ながら四は、多くの点でほとんどまぬけな一部の極東の民族たちが不吉とする数字ではある。その四回目に、かれは様々なものに触れ、そしてその様々なものすべてに、ぼくたちを捕まえる果てしない過去の歴史と記憶がある。父親が死んだ少年時代。編集者として偏屈作家Rに会いに出かけ、変わった女の子に会って結婚。その妻を夢遊病で殺す直前に、再びRを訪問。多様な対象の背後に、たくさんのこうした時間がたたずむ。そしてそのすべてが、また今に届け戻される、のだが(それも主人公を殺すために)、その届けられ方も、二筋縄ですらすまない。

 透明な対象。原題にもある英語の transparent(透明)は不思議なことばだ。これは何かが(透明なガラス越しのように)はっきり見えるという意味でもあり、何かが(無色透明なので)まったく見えない、という意味でもある。本書のことばは、あなたにとってどっちだろう。本書を楽しめるかは、それで決まる。物語としての小説を求める人にはお勧めしない。この本には、勧善懲悪も因果応報も、愛の勝利や友情の美しさも、アクションもセックスも(期待されるようなものは)ない。そうしたものを求める人は、ナボコフのいつになく意地悪で執拗な嫌がらせにあう。その意味で本書は同じ作家Rの『ララタイションズ』とそっくりだ。 流麗さはなく、むしろ表面的にはぎくしゃくして平気だ。そのぎくしゃくぶりが持つ透明性に敏感な人だけに報いがある。むずかしそう? 確かに。でも訳者たちのていねいな翻訳やヒント集は、その味わい方指南として異様な親切ぶり。小説以外になろうとしない小説の読者たち(生死を問わず)への、亡きナボコフから謎かけの詰まった悩ましき一冊だ。

(コメント:これはわけがわからんと言ってボツになってしまったのですが、個人的には圧倒的にこっちのほうがいいと思うのだ。いっぱい仕掛けが入っているし。まあしゃあない。で、書き直したのが次のヤツ。)
 

ウラジーミル・ナボコフ『透明な対象』(国書刊行会)

 小説家には二種類いる、と述べたのは英国の作家アントニー・バージェスだ。第一種は、風景や人物やストーリーをありのままに描き出す作家。第二種は、何を描くかよりもことば自体をどういじるかに関心がある作家。前者の書く小説は広く読まれ、実にきれいに映像化でき、そしてその映像に絶対に勝てず、いずれテレビや映画に駆逐される運命にある。後者こそがことばでしかできない、小説の真の可能性を実現できる。

 ナボコフは、筋金入りの第二種作家だ。ロリコンの語源になった『ロリータ』の作家としてばかり一般には有名だけれど、でも真の小説の可能性を信じる人々にとって、かれはことばの魔術師とまで呼ばれるヒーローだ。この『透明な対象』はかれの最後から二番目の小説。そしてまさに第二種小説としての可能性を滴らせた一作だ。

 その可能性とは、多くの人が「文学」に期待する、流麗な叙述や美しい日本語云々とはまったく無縁の代物。むしろ悪い意味で標準的でない異様な文章だ。駄洒落や頭韻、文章の途中での不自然な切り替えやアナグラム、ほのめかしやひねりすぎた比喩、映像にならない記憶の喚起と連想――そこにこの小説の真価がある(訳もそれに敏感だ。題名で、た行のことばが続くのは偶然じゃない)。第一種式に主人公に感情移入しながら本書を読む人は、ナボコフ小説の中でも最大級の不愉快な目にあわされる。

 父親は目の前で死に、校正者として担当する作家Rは偏屈で、惚れた女の子はキテレツもいいところ、思いを遂げたら夢遊病で彼女を一瞬で殺すハメになり、精神病院から出てきたとたんに火事に遭い、死者たちに加わる。でもそれを楽しげに語る話者は、存命中の一瞬を除き、主人公なんか意に介さない。

 話者(そしてその仲間)は、ことば(対象)をそれ自体としては見ず、その背後にある各種の経緯を読み取る。この本を楽しむためには、あなたもそういうふうに、ことばの背後(または表面)にある数々の連想をどこまでも深読みし、その絡み合いを感じなきゃいけない。

 その一部は訳者の親切なノートで説明されているけれど、他にも仕掛けはいっぱいある。実はすでに予告されていた出来事。不自然に挿入される逸話の意味。面倒そうに聞こえるだろうけれど、意外と入りやすい仕掛けもあるし、読めばあっさり第二種小説への第一歩を踏み出せるかもしれない――つまりは小説の未来へと。

(コメント:まああたりさわりない紹介ですね。)
 

岡本裕一朗『異議あり! 生命・環境倫理学』(ナカニシヤ書店)

 最近、クローン人間誕生のニュースが流れて、それが事実かどうかで騒動が持ち上がると同時に、クローン人間は倫理的に許されない云々、という声が出た。でも……なんでクローン人間がいけないのか、実は(ぼくを含め)多くの人はよくわからない。それを禁止するという「倫理」って何なの? 中絶だって試験管ベビーだって臓器移植だって、何かというと倫理が持ち出される。でも各種倫理検討委員会と称するものの結論は、いつだって「まあなんとなくいいんじゃないか」とか「まだ何となく不安に思ってる人が多いみたい」とかいう世論調査以上のものじゃない。

 本書は、こういう状況を批判して、のっけから述べる。倫理学って、破綻してるんじゃないのか? 特に生命倫理だの環境倫理だのという応用倫理学と称する学問って、現実に対して何一つまともな答えを出せない欠陥学問ではないのか?

 おお。多くの人が抱いていた素朴な疑問をここまではっきり肯定してくれるとは。

 そして本書がおもしろいのは、単にこういう素朴な疑問を正直に述べてくれているからじゃない。こうした応用倫理学で問題となっている各種の議論を手際よくまとめて、それが現場だけでなく、理論の場でも何の結論も出せない袋小路に入り込んでいることを示してくれるところだ。中絶、クローン人間、臓器移植、環境がらみの各種問題。むずかしい問題だから答えが出ないのは当然だ、と開きなおるのもいい。でもその一方で、本書はもう一つの可能性をあげる。要するに倫理と称するものは、実は別のイデオロギー(男性優位主義や原子力推進派)の隠れ蓑じゃないのか? この問題をきちんと考えないと、倫理学はお説教とあとづけの御用学問以上のものになれないのでは?

 批判は強力で本質的だが(いやそれ故に)書きぶりはごく素人にでもわかるうれしい平易さ。「倫理」と称するものを常日頃うさんくさく思っている素人にこそお勧めだ。そして当の倫理学が、本書の批判に(建設的に)応えて新たな展開を見せてくれることを願いたい。

(コメント:某お嬢ちゃんに申し上げておくけれど、実はこういうことはあんまし言われていない(稲葉振一郎ならたぶん、すでにこういうことを言っている人をたちどころに 10 人くらい挙げるかもしれないけれど、でもメジャーではない)。なぜかというと、世間というのはあなたが想像しているよりはるかに頭が悪いから。あなたは自分が(少なくともいまのところ)異様に頭がいいということを自覚する必要があります。あなたが当然のように一瞬で思いつくことも、世間では実は認識されるまでに 5 年、さらにそれがきちんと文献化されるまでに 10 年かかったりするのです。(ちなみに、あなたがそのリードをいつまで保てるかは必ずしも明らかではないので、あまり天狗にもなりませぬよう。ついでに言えば、頭がいいというのは幽霊が見えるのと同じで、必ずしもいいことばかりではありません。どうして他人は当然わかるはずのことがわからないのだろうと、他人のわからなさ加減の見極めにずいぶん悩むことになります)。さらに現場で実際にクローンとか臓器移植とかやっている人にしてみれば、当然すでにこういうことは考えているだろうけれど、かれらは別に倫理学なんて必要ないので相手にしていないのです。したがって、当の倫理学の人がこれをきちんと整理して出したというのは、えらいことなのです。)
 

イアン・スチュアート『2次元より平らな世界―ヴィッキー・ライン嬢の幾何学世界遍歴 』(早川書房)

  百年前に、二次元の世界に三次元人を侵入させることで、幾何学的な次元の概念を解説した名作「フラットランド」の着想を借りて、現代の幾何学世界を探検する趣向の楽しい科学・数学読み物。カバーする範囲は、フラクタル次元から位相幾何学から、はては情報理論や符号理論に超ひも理論まで、「え、こんなところまで幾何学が関係あるの?」という驚く分野まで様々。あまりの広さに主人公もしばしば目を回しているほどだ。各分野の解説はその分少な目だけれど、深入りせずにざっと読むにはちょうどいい。現代風の意匠やジョークも加わって(苦しいところもあるけど)楽しく読めるし、翻訳もそれをうまく活かして読みやすい。著者スチュアートは、ネタもとの「フラットランド」に大いなる敬意を払っており、そこにこめられた男女平等思想さえも幾何学的に翻案してストーリーに盛り込む凝りよう。中学高校での幾何学で、すねに傷持つ人にもおすすめ。

(コメント:同じ頃に、アリスねたで似たような本が出て、ホントはいっしょにやりたかったのだけれど。ちなみに、このオチのつけかたは斉藤美奈子には怒られると思う。)
 

金水敏『ヴァーチャル日本語、役割語の謎』(岩波書店)

  ぼくは翻訳者として、長いこと「~さ」「~なくってよ」「~してくれたまえ」といった表現に、すごく違和感を抱いていたのさ。そんな言葉遣いをするやつ、どこにもいらっしゃいませんことよ。いつの間に、こんな変な文語表現が蔓延(まんえん)するに至ったのでござるか?

 本書は、ぼくのこの長年の疑問に正面きって答えてくれた爽快な本だ。

 こういう用語は、話者の役割を効率よく示せる。「~じゃよ」といえば年寄の博士。「~なくってよ」といえばお嬢様。変なインチキ方言はトリックスター的脇役。つまりこれらの表現は、役割語としての機能を担っておるのじゃよ!

 もちろんそこまではぼくでも見当がつくアルよ。本書の面白さは、なぜそういう表現が成立したか、というのを起源から(仮説を交えつつ)説明してくれるところにあるんや。これらは、日本語の歴史の中で、言葉をめぐる文化的な抗争の結果として生まれたのだ、と。上方語と江戸語との対立。上昇志向の書生言葉。雑誌経由の女学生言葉。戦争と植民地化を通じたアジアとの関係。その核として著者は、標準語の成立を挙げる。標準語から外れたステレオタイプ表現ツールとしての「役割語」。そしてそれを安易に使うことは、実は各種社会的ステレオタイプの延命に一役買っているのではないか、と著者は主張する。それを認識し、実存しないヴァーチャルな日本語を乗り越えて、リアルな日本語をつかみ取ろう、と。

 主張は真剣ながら、材料として江戸・明治の小説から現代のマンガや流行歌まで縦横に使った論証と語り口は実に楽しい。日本語のあらゆる使い手は、ぜひとも本書を一読してくれたまえ。著者の批判を、あなたはどう受け止める? ただし……実はここしばらく、マンガや歌やテレビドラマ(特に吹き替えもの)での安易な役割語乱用に影響されて、それを実際に口語で使う例が散見されつつある。著者の批判をさらに超えて、ヴァーチャルがリアルに転化する様子をぼくたちは目撃することになるやもしれませぬぞ。

(コメント:いやー、ちゃんと気にして調べている人がいたんだ! 津野海太郎を蹴散らして獲得した甲斐があった。)
 

森川 嘉一郎『趣都の誕生―萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)

 悔しい。かつては毎週、いまでも月に一度は出かける秋葉原のここまで明確な変化の意味を、本書で指摘されるまでまったく気づかずにいたとは!

 秋葉原といえば電気街、というのはもう昔の話。かつての主力商品だった冷蔵庫やテレビの販売は郊外店舗に取られ、いまの秋葉原はパソコンと、そしてアニメおたくの一大即売会場と化しているのだ。本書はまずその変遷を、テナント構成や壁面広告をもとに示し、おたくの部屋を裏返したような趣味の世界が都市の風景を決定づけていることを指摘する。その都市変化は、かつて家電製品が象徴していた輝く未来像の喪失と重なる。そして「未来」を失った建築像として、著者はあのオウム真理教のサティアンを挙げる。空間的な構成を欠いた、窓のない箱でしかない「建築」。それはまた、典型的なおたくの部屋でもあり、そしていまの秋葉原の新しい建物がまさに向かっている方向性でもある……

 ポケモンジェットにも、著者は同じ図式を重ねて見せる。未来の急先鋒だったはずのジェット機が、いまやアニメキャラクターにまみれている。商業主義へのへつらいを誤魔化しただけの「ポストモダン建築デザイン」もまったく同じ文化的な流れの一部だ。さらに地理的にも、その流れは拡大しつつある!

 そしてこの本のいいところ。街がサティアン化しているときたら、ついつい日本文化の将来なんぞを憂慮してみせたくなるのは人情だろう。著者はそれをしない。インチキな対立図式をでっちあげて危機感を煽ったりも(ほとんど)しない。本書は文化とその表現の流れを淡々と描いて終わる。

 本書を読んで、あなたが日本の都市を見る目は変わるだろう。もうぼくは、以前のようには秋葉原を歩けない。そこはすべてがコレクションの一部と化した巨大な部屋だ。本書を読めばその部屋の「主」の存在をひしひしと感じられるようになるだろう。

 だがそれにしても、だ。その「主」ってだれだろう。それはぼくたち読者に残された宿題、かもしれない。

(コメント:いやあ、これはおもしろかった。)



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