朝日新聞書評 2002/06-09

 

セン『経済学の再生』(麗澤大学出版会)

 近代経済学は、合理的な個人と、自分の利益を最大化したがる個人を想定して 理論を構築している。これはかなり有効だけれど、単純化でしかない。なのに、 時に経済学はそれを忘れ、非現実的な結果を出してみたり、解がなくておたつい たり。本書はノーベル経済学賞受賞のアマルティア・センが一九八六年に行った 講演録だけれど、合理的で利己的な個人という想定の偏重を戒め、いまの経済学 に欠けている各種要素を指摘し、そして倫理学と経済学の交流を通じてもたらさ れる成果の見通しを述べる。

 センと読者の溝を深める解説は残念だが、訳は固いけど正確。講演録なので、 比較的手軽に読めるのも吉。お金じゃない豊かな生ってどう考えようか。結果だ けじゃ判断つかない権利や自由といった価値はどう考慮しよう――本書の問題提 起は、いまなお重い。でも答えは出ていないながら、だれもが時に感じる疑問を 本気で考えている本書は読者に希望を与えてくれる。

(コメント:解説は、アロー=ドブリューの数学的なモデルを勉強しないとセンの主張はわからんのであるなどと力説。そういうモデルの背景にある考え方(前提)を過度に盲信することこそがいかんのだ、というのがセンの主張の中心ではないか! またセンの英語はむずかしいから云々というのもウソ。普通ですよーだ。)
 

スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』(徳間書店)

 開発援助の世界で、世界銀行さんと国際通貨基金 (IMF) さんと言ったら、 泣く子もだまる超大物だ。この両者がくりだす援助方針は、とにかく構造改革、 なんでも市場経済化で、硬直していると悪口を言われつつも、みんな一応は聞か ざるを得ないのだ。

 だから、数年前にその最強タッグの片割れ世界銀行の核心からいきなりすごい 批判が出てきて、みんなのけぞった。曰く、IMF やアメリカ財務省のやりくち は画一的で相手国無視! かえって事態を悪化させてるぞ! 連中の「グローバリズム」 はアメリカ流の押しつけ! もっと正しいグローバリズムをやろうぜ!

 IMF としては、背中を撃たれたもいいところ。しかもそれをやったのが、世 銀のなんと主任経済学者ときた。ジョセフ・スティグリッツ。去年のノーベル経 済学賞をとった、天下御免の天才経済学者だ。

 その批判を集大成し、かれなりのグローバリズム像を提示したのが本書だ。

 だれもが認める天才ではけど、この人は一方で社会常識に欠け(MIT教授就 任の条件が「研究室に寝泊まりするな、たまには靴をはけ」というものだったほ ど)、そして政治的な駆け引きや配慮は皆無。正しいと思ったことは立場おかま いなしに主張し、理論的にまちがってる相手は遠慮会釈なく批判、そして物わか りのわるいヤツは罵倒しまくる。本書でもそれは全開だが、率直な分ごまかしが なくて明快。理論的には、誰も文句のつけようがないものだ。

 時に他人の政治的立場をまるで無視した罵倒は酷い。同じく大経済学者のサマー ズやフィッシャーらを、理論通りに動かないからと言ってウォール街の走狗呼ば わりするのはあまりに一方的。だいたい世銀の援助だって、硬直ぶりは五十歩百 歩で評判悪いのだ。さらに巻末の某エコノミストによる解説もどきは、ピントは ずれな自慢に終始して醜悪。が、それは些末な欠点でしかない。援助関係者はも ちろん、グローバリズムに反対の賛成の人も、本書を読んで、正しいグローバリ ズムや援助のあり方を考えて欲しい。

(コメント:これは名著。日米同時発売、だったんですねー。ちなみに巻末の某エコノミストとは、リチャード・クー。「おれは工場経営の経験があって、スティグリッツはコンゴの大学で教鞭をとったことがあるから、どっちも純粋アカデミズムでない現場経験からものを言っている」などという何の理屈にもなっていない物言いの連続。逝ってよし。)
 

小谷野敦『聖母のいない国』

 美男美女の乱舞する愛欲恋愛世界に「そんなこと言ったって、どうしてももて ないヤツっているんだしぃ」と斬り込んで、ブンガク業界を一気に正気づかせた 名著「もてない男」もそうだったけれど、小谷野敦の魅力はその身も蓋もなさで はあって、それは本書でも健在なのである。この本は、タイトルは意味不明だけ れど、いろんなアメリカ小説を、特に愛や結婚や性の話から眺めたものだけれど、 えらいのはそれが重箱の隅をつつく話にならず、小説の核心にまできちんと触れ ているからで、その核心というのは「この小説がおもしろいのはなぜか」という 話なのだが、たとえば「風と共に去りぬ」が人気はある(つまりおもしろい)の に文学的評価が低いのは、それが「なんのかの言ってももてる女は得だ」という 真実を描きだしてしまっているからだ、という指摘なんかは、実におみごと、確 かにそうだなあ。

 ちなみに現代の文芸評論の多くは、おもしろさとかつまらなさをきちんと述べ ることができないのだ。類似性の指摘がせいぜいで、それが具体的にいまの社会 にどう応えているか、という本当に重要な話をするツールを持ち合わせていない のだ。ところがこの本はそれをあっさり乗り越えている。そしておもろさという 軸を使うことで、この本は小説がもつ社会的機能にまで触れることができている。 それは「赤毛のアン」シリーズがなぜ日本では未だに異様な人気を保っているの か、という話なんかに出てくるのだけれど、そのレベルからさらに進んで、社会 そのものまでが射程に入っているのは、いや、正直いって文藝評論ごときにここ までは期待していなかったんだが、現にできちゃってるんだからしょうがない。

 時々出てくる自意識過剰な部分(「おれの理論にこいつが言及しないのはけし からん」等)はまあご愛敬。重たい眉根にしわのよった文藝評論に期待している 人が読むと面食らうだろうけれど、もうそういう時代ではないのです、というよ うなことも、本書には書かれていたりするのだ。あなどれませんぞ。

(コメント:ファイル捜索中。ちょっとほめすぎかなと思ったけど、おもしろかったからまあいいか。ところが小谷野敦はこの文中の「おれの論に言及しないのはけしからん」というのがかっこに入っていて、本からの引用のように見えるが自分はそんな文は書いていない、誤解を受けるから訂正記事を出せと朝日新聞に文句をつけたそうな。唖然。カッコに入ってたらなんでも引用かい。実際に小谷野がなんと書いているか知りたい人は p.164 を参照。)
 

藤本和子『リチャード・ブローティガン』

 ブローティガン「愛のゆくえ」は、まったく社会的に意味のない「手書き本の 図書館」をやってたった一人で生きている主人公のところに、巨乳の美女がやっ てきてなついてくれるという、おたくの妄想そのものみたいな小説で、泣いてい る女の子を落ち着かせるために、その主人公が棒つきキャンデーをあげるという シーンに中学生のぼくはえらく感心して、しばらくポケットにキャンデーを常備 していたのだけれど、それを使う機会はついぞなかったっけ。アメリカのリチャー ド・ブローティガンは、そういうちょっとしたどうでもいい思い出と結びつくよ うな、余白感と懐かしさと悲しい諦めとがこもった小説ばかり書いていた人だ。 わかる人はわかる。ダメな人はダメ。そしてそれはある意味で、ブローティガン 当人のキャラクターとのシンクロ具合にかかっている。

 だからその最高の翻訳者にして友人でもあった藤本和子によるかれの伝記が、 それ自体なんとなくかれの小説みたいな雰囲気をたたえているのも、まあ納得で きるような。自殺したかれの死亡記事から始まり、その家族、友人たち、藤本自 身との交友、日本との関係。そこにかれの小説のいろんなモチーフがからむ。別 に大きな事件のある人生じゃなかった。あちこちで、いろんな人が見かけた、い ろんなブローティガンの姿――それは寂しく、悲しく、孤独で不安定な、無邪気 な一面で身勝手な姿ではあったのだけれど――をとらえつつ、やはりこの伝記は、 なぜブローティガンは自殺したのか、という疑問のまわりを、うろうろとめぐる。 結局、それで何がわかるわけではないのだけれど。結局、かれが何を考えていた かなんて――それを言うならだれが考えていることだって――わかりはしないの だけれど。でも、そのうろうろぶりが、かれの死後の期間でかなり乾燥したため に極端に湿っぽくならず、重たくもならず、いかにもブローティガンっぽい感じ だ。

 もうかれが死んで二〇年近くたつ。久しぶりにかれの本を読んでみようかな、 と思う。そんな本。

(コメント:文中の「巨乳」という表現に物言いがついて、「殺人的ナイスバディの」に変更したらオッケーとなった。笑ってしまいました。)
 

クレイス「食糧棚」(白水社)

 本書を読むときには、舌をそばだてつつ読んでほしい。口の中の何もない場所 を、舌で探りつつ、そこにあるかもしれない食べ物を味わいつつ読んでほしい。 いや、ぼくが言うまでもなく、あなたはそうせずにはいられないだろう。これは そういう本だ。

 ぼくたちと食べ物の関係は変に深くて微妙なものだ。栄養摂取のためだけじゃない。それを口にした時の状況、いっしょにそれを食べた相手、そのときの感情、その後の体調――そんなものがすべてついてまわる。何気ない一口が呼びさます、涙が出そうなほど懐かしく切ない記憶と感情の数々は、たとえばプルーストの有名なプチマドレーヌ体験でも描かれているけれど、本書はそれを六四編も集めた連作短編集だ。

 そこに描かれているのは、時には異様な、時にはあまりにありきたりな、そして時には存在しない食べ物たちだ。前作『死んでいる』でも発揮されていた作者ジム・クレイスの淡々と細部にこだわる文体は、本書ではまさにドンピシャ。軽薄なグルメ談義もどきに堕落せず、しかも口の中から時空を超えて広がる、食べることの体験の全貌を細やかに描き出してくれる。どこから読み始めてもいい。六十四編のどこかに、あなたの味蕾にふれる味わいの一本が必ずあるだろう。

 読み終えて、食事中にふと本書の一編が思い浮かぶこともあるだろう。あるはあなた自身の食べ物にまつわる思い出が、以前よりちょっと鮮やかによみがえってくるかもしれない。緻密で繊細な文を丁寧に訳してくれた渡辺佐智江も、そうした思い出をあとがきで語っている。ぼくも本書を読んで、食べ物にからむいろんな思い出がよみがえってきた。買ってもらえなかった綿あめ、モンゴルの冷えた羊肉、平安京のべっこうあめ。読者はみんな、こうしてそれぞれ自分自身の物語をここに付け加えることだろう。そうやって読者ごとに思い思いの広がりを見せ、いつしか本書はその読者だけの一冊となり果てることだろう。あなたはどんな食べ物を本書に加えるだろうか?

(コメント:淡々としたいい本だったし、装丁もよかったし、もうちょっと書きたいと思って CUT のほうでも書きました。)
 

ブックラック用原稿:橋本治『「浮上せよ」と活字は言う』(平凡社)

 中学生の頃に古本屋で『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』という珍妙な本を 見つけた。数日間そこに通って立ち読みしたあげく、大枚千八百円もはたいて (当時ぼくのお小遣いは月五百円だった)それを買うまでの逡巡は今なお忘れな い。

 それからもう 20 年。ぼくはずっと橋本治を読み続けてきた。その主張、その口 調、その手法――通俗大衆文化をストレートに日本の社会や個人にまでつなげる やりかたは常に無敵だった。『キンピラゴボウ』で、それは少女マンガだった。 この『「浮上せよ」と活字は言う』で、それは雑誌だ。ぼくの世代の多くの連中 はずっと橋本の影響下にあったし、それが誇りでさえあった。でも、ぼくはこの 『浮上せよ』前後から、だんだん物足りなさを感じている。橋本治に対してとい うより、それにいまだに喜んでいる自分に対して。このままだと、なぜか自分が ダメになりそうな気がするんだ。

 橋本治には、本当にいろんなことを教わった。ありがとう、でもさようなら。 来週、ぼくは橋本治を読むのをやめるかもしれない。ここしばらくそう思い続け ながら、未だにふんぎりがつかずにいる。

(コメント:ブックラックは、書評委員の顔を見せつつ、採りあげられなかった本なんかについて書くコーナーなのだ。橋本治については、いつか本当に精算しなきゃと思う。いろんな人がかれの恩恵を受けているけれど、だれもそれを踏み越えようとしない。橋本はいつまでも前線にたたされて、最近のかれの本や文はその苛立ちやもどかしさ含みの投げやりな感じがすると思う。しかしながら、これを読んでこれが「橋本治はもうダメだ」的文章だと思ったバカが結構いるようで、ぼくはあきれた。あのねえ、これは橋本治を乗り越えられない自分への苛立ちを表明しているの! これだから倉坂はヴァカだというのだ。)
 

ハート=マッカーティ「ノーベル賞経済学者に学ぶ経済思想」(日経BP)

 アインシュタインの業績ならだれでも名前くらいは知っているのに、サミュエルソンといったら、経済学部の学生でも「有名な教科書を書いた人」以上のことは結構知らない。自然科学とちがって、いろんな経済学者の理論とその背景を一般読者にきちんと理解させてくれる本は以外と少ないのだ。本書はその珍しい一冊。44 人にのぼるノーベル賞経済学者たちの業績の概要をまとめつつ、経済学の学問としての方向性や指向まで描き出すことに成功している。時に現実から遊離した机上の空論と批判されがちな経済学だが、本書は経済学者たちが現実世界のどんな悩みや問題に対処すべく理論を開発し、そしてそれが現実にどう役だったかをすっきりまとめて、経済学をずっと親しみやすいものにしてくれる。経済学の基礎的素養習得におすすめだし、専門家でもなかなか知らない人間くさいエピソードも満載で読み物としても楽しい。索引や文献一覧も完備。

(コメント:ストレートな経済理論解説。でもこういうのって、日本では意外とないのだ。The Economist の経済理論解説の欄みたいなのが日本でもほしいとこ。あと、進化論がらみの記述が結構トホホだという指摘が黒木掲示板にあり。ありがちなトホホではあるんですが、確かにご指摘の通り。ただしそれは本筋の経済理論の説明の価値をダメにするものにはなっておらず、たとえ話が悪い、という程度ですんでいる。)
 

イザベル・アジェンデ「パウラ」(国書刊行会)

 人が怒濤のように生き、死に、精霊たちが飛び交い予言も空中浮遊もあたりまえの驚愕の世界が、平然と歴史の中に位置づきつつ、一瞬でいまここの物語と化してしまう茫然自失の大傑作『精霊たちの家』で一躍世界的な大作家になったイザベル・アジェンデ。その娘パウラが突然、奇病に倒れる。昏睡状態のパウラに、彼女は手紙を書き始める。いつか娘が目を覚ましたときのために。娘が、自分の何たるかを目覚めたときに理解できるように。

 その手紙は、長いアジェンデ一族の歴史をたどる。まずは祖父母たち。イザベルの父親の不思議なスキャンダルと失踪。派手好きで芝居がかった叔父。性。結婚。恋愛。就職。チリの軍事クーデターとピノチェト独裁下の暗い日々。亡命。出産。離婚。イザベル自身、そしてその間にもパウラの病状とそれを巡る様々な人々が交錯する。それは小説『精霊たちの家』の再演でもある。でもそれは(変な言い方だけど)小説と同じくらいのリアリティを持つ。断絶と孤独をわめきたてるだけの干からびた現代小説の多くなんか足下にも及ばない、ミクロがマクロと直結した豊饒な世界がそこにはある。ぼくたちの多くは、ほんの数十年前とさえろくな結びつきを感じられない。でもアジェンデの世界では、二百年前の祖父母たちの一つ一つの事件、何気ないふるまいが、すべてもっと大きな歴史的意義を持ち、今の自分自身に当然のように結びついている。自分や娘の何気ない一言や忘却。出たとこ勝負の無謀な冒険たち。ぼくは読みながら何度も笑い、そして涙を(本当に!)流した。生の豊かさが充満した文句なしの名作だ。

 いや……でも一つだけ。この長い手紙が決して読まれないと知ったとき、娘がこのまま死ぬと悟ったとき、何かが変わる。そのときこの物語は、ぼくたち、つまり外野の読者の視線を意識しはじめるのだ。自分の不倫や離婚を語る彼女の、さりげないふりをしたいいわけがましさ。そして最後の、娘の死を変に脚色し、あげくに娘そっちのけで自分語りにすり替えるあざとさ。「私は空虚、私は存在するすべて」――いやあなたはいいんだけどさ、娘さんは? 最後の部分だけ、作品がそれまでの世界や歴史との豊かな関係性を失う。あのイザベル・アジェンデすら、娘の死からは目を背け、悪しきフィクションに逃げるのか――残酷で勝手な物言いなのは承知だけれど、それでもぼくは一抹の無念さを感じずにはいられない。

(コメント:CUT の書評と重なってしまった。最初、800 字で書いて誉める方を主体にして両方でコントラストを出そうと思ったんだけれど、その後 1000 字に拡大しろといわれて、書き直しているうちに同じ内容になってしまった。)



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