変な日本、世界にはばたく

(「週間朝日」1994年末)
 

山形浩生

 日本に対し、まったく新しい視線が向けられつつある。近年続々と出現した日本ネタの変な本が、それをNyojitsuに物語っている。

 それはフジヤマ・ゲイシャ的エキゾチズムではないし、経済/産業大国Japanへの興味でもない。名著『日本権力構造の謎』のウォルフレンらレビジョニストとも無関係だ。サイデンステッカー好みの古きよき日本でもないし、まして文化庁的国際親善人畜無害愛想笑い伝統芸能日本などとはまるで無縁。

 それは我々が必ずしもおおっぴらにしたくない部分をつつきまわす。「政治」「経済」「文化」などという抽象的なレベルではない、もっと底のぐちゃぐちゃしたあたりをかきまわしている。真面目な「関心」ではない、下世話な興味と好奇心から入ってきているのだ。
 某有名建築家が来日した際に、公式訪問スケジュールには目もくれず、千駄ヶ谷のラブホテル街をうろついては奇態な建築群に狂喜して、日本側招待者たちの顔をしかめさせたという。同じ現象が、もっと一般のレベルで起こりつつある。そして、この新たな日本観の核をなすのは、セックスとOtakuである!

 たとえばニコラス・ボーノフ『ピンクのサムライ――現代日本における愛と結婚とセックス』。古事記の話で始まるこの本、タイトルはふざけているけれど、きわめて真面目でよくまとまった日本セックス研究書である。Manaita Honban Showから黒木香、オフィス・ラブからレディース・コミックまで、日々セックスに明け暮れる日本人たちを赤裸々に描き出す。
「日本でのセックスは、秘められているようでいながら、実は驚くほど露骨でもある。たとえば日本の電話ボックスには無数の小さな広告が貼ってあり、その一つ一つがセックス・サービスへの案内となっているのだ!」おお!

「Kaisha の Ofisu (Office) では、バレンタイン・デーにはGiri-chokoなるアイテムがとびかい、日本的横並び意識の醸成に貢献している!」そうか、そうだったのか! キミたちはそういうくだらないことが知りたかったのか! 

 しかし、なんだってこんな本が出るのか。単に下ネタ興味でないのは明らかだろう。たとえばこれが『緑のグルカ兵:現代ミャンマーの性と結婚』とか『むらさきズブロッカ:現代ポーランドの性事情』では、どうしてもインパクトが薄い。日本がのぞいてみたい存在なのは、すでに日本の企業や製品が強力な存在感をもって世界の日常生活にあふれているからなのだ。
 旧東ベルリンだろうとホーチミン市だろうと、世界中どの街角に立っても日本企業の大看板の一つや二つは確実に目にする時代だ。「Canon」「SONY」「Toyota」などのネオンは、すでに風景の一部であり広告とすら呼べない。あるいはどの国でもテレビを点けると、出てくるのはSegaやNintendoのCMばかり。それにもかかわらず、日本人の存在感はきわめて希薄である。こんなギャップに、好奇心が向けられるのは時間の問題でしかなかった。

 だからより正確に言うなら、ここにあるのは「日本」に対する興味と言うより「日本人」に対する興味なのだ。モノは見えれど人は見えない存在。その「人」に近づくための切り口として、セックスはもっともてっとり早い。

 ピーター・コンスタンチン『Japanese Street Slang』は、日本の俗語辞典。ことばの側から日本人のセックスに踏みこんだ名作である。包括的だし、正確だし、お下劣だし、何も申すことはありません。「Chotto kyo chitsu ga itai no yo ne! Yarisugi kashira?」てなもんである。「一説によれば、Omeko という表現は女性器をさす古代シュメール語 mi が語源である」(ホントかよ)なんて話まで紹介されていて、いやはや恐れ入りました。

 こういう本を面白がってうっかり毛唐にあてがうと、便所で顔を合わせたとたん Do you Unko? などとわめかれたり (Yes, I unkoニ決マッテルダロガ)、「chinchin のchinが重なっているのは、金玉が二つあることと関係あるのだろうか」なんて教室で真顔できかれたりして、恥ずかしい思いをすることになる。しかしながら、こうした本がすでに世に出回ってしまった現在、日本はすでにそうした恥ずかしい事態から逃れられなくなっているのも事実である。この本をかかえた無数の外人部隊が、すでに続々と成田空港に降り立っているのだ。
 さて、この本ををいち早く紹介して誉めたのが、アメリカの情報テクノロジー礼賛雑誌『WIRED』だった。

 この雑誌は、日本がお好きで、「日本では、どの家電製品もいちはやくファジー制御を採用!」とかいうどうでもいいネタを、デカデカと載せたりするので楽しいのだけれど(最近号では「Sega:世界征服の野望」なる特集記事を載せている)、これが1992年冬の創刊号でとりあげたのが、日本のOtakuである。

 内容は、宮崎事件の紹介から始めて、最後に日本一億総Otaku化を示唆するという、陳腐なものだが、しかしこの記事や雑誌が、Otakuを共感できる理解可能な日本人像として好意的に評価しているのは見逃せない。

 かのテトリスを考案した旧ソ連のゲラシモフくんが、見事なまでにおたく顔のOtakuであったという報告にも見られるように、Otakuはすでに世界的な存在となっており、人類進化の新段階として捕らえようという極論すらある。が、ここでは単に、日本人理解の糸口としてのOtakuという面を指摘しておくにとどめよう。

 こうした動きはアメリカだけのものではない。日本のOtaku にいちはやく注目した点では、オランダのメディアアート(テレビやコンピュータ等を使ったアート作品)雑誌『Mediamatic』を挙げなくてはならない。

 創刊以来、この雑誌では、テレビや液晶やコンピュータやファミコンなどのハイテク機器を続々と繰り出すのに実像が見えない日本に対する、畏怖の念にも似たテクノ神国的扱いがなされていて微笑ましかったが、その集大成が1991年冬号だった。題して「特集Otaku: ラディカルな退屈」。コミケおたくやゲーマー、アイドリアンなどを一通り紹介する。曰く「情報化社会で現実から遊離した、ポストモダンな人間のありかたがOtakuなのだ、そして現在の高度情報化社会では、すべての人間がOtakuなのである!」一年後に出た『WIRED』記事とは比較にならない深みだ。

 なお、この雑誌の関係者がウゴウゴルーガにご執心で、いずれOkiraku Gokuraku特集を組むという根拠のない噂がある。むろんOtaku的日本への関心の一環である。

 小説などにも影響が出ている。未来の千葉市が舞台の一つの『ニューロマンサー』で、ウィリアム・ギブスンは東洋趣味の濃い日本像を描いたが、新作『バーチャルライト』に登場した日本人は、そうした着色がまるでなく、十年前からの進歩を物語る。

 また現代アメリカ最大の作家の一人トマス・ピンチョンも、二十年ぶりの新作『ヴァインランド』でメインキャラクターに日本人を据え、その相棒のアメリカ人Kunoichi女ニンジャは、パチンコに精を出したり、Yakuza の仕切る赤坂の秘密売春クラブに潜入したりと、リアルな日本像にはこと欠かない。

 もちろん、あらゆる異文化接触がそうであるように、こうした新しい日本理解も一面的なものではある。セックスとOtakuで日本総てを云々されてはかなわない、という方もおいでだろう。しかし、好き嫌いにかかわらず、いま確実にこうした歪んだ日本観が広まっているのだ。われわれとしては、その歪みをとりあえず楽しむしかなかろう。

 その楽しく歪んだ日本では、無数のOtakuたちがファミコンとロリコン同人誌にうつつをぬかし、バレンタインデーともなればOfisuに無数のGiri-chokoがとびかう。一方で老若男女は淫媚なセックスを求めて徘徊し、ウゴウゴルーガを観てはOkiraku Gokuraku 三昧の日々を過ごしている・・・ん? 待てよ、これって全然歪んでない、今の日本そのマンマじゃねえか!

 
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YAMAGATA Hiroo (hiyori13@mailhost.net)