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alc2012年04月号
マガジンアルク 2012/04

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 74 回

エチオピアの変わった敬語表現

月刊『アルコムワールド』 2012/04号

要約:エチオピアでみんなが息苦しそうだったのは、別に病気ではなく、なんと敬語表現なのだった。


 先日までいたエチオピアのアジスアベバは、高地で乾燥していて、さらに建設ラッシュであちこち工事で地面を掘り返していることもあり、ものすごくほこりっぽい。加えてボロ車(ロシア製の中古車その他)が黒煙をあげて大量に走っているので、排気ガスもすごい。おかげで訪れた日本人の多くはすぐにのどをいためて、カゼをひいたりするという。

 だから現地で、お役人や企業の人にあれこれにインタビューしているときに、みんながときどき変な息の吸い込み方をしたり、息が苦しそうだったりするのも、てっきりそのせいだと思っていた。

 全然ちがった。

 実は、息苦しそうに見えたのは、なんと敬語表現だったのだ。

 あるうちあわせのときに、いっしょにヒアリングをしているエチオピア人に何気なくその話をしたところ、かれがニヤニヤしながら説明してくれたのだった。こちらの人は、相手に息をかけるのが失礼だと考える。だから、語尾や文末で息を吸い込んで見せることで「息をかけてませんよ」というのを表現するんだって。

 そう言われて観察していると確かにエチオピア人同士でもしょっちゅうやっているし、一応立場が下の人が上の人に対してひんぱんに行っているのもわかるし、あちこちの受付でも、きちんとしたところほど息の吸い込み度合いが高い。

 さらに本当にていねいな人だと、文末で息を吸い込んで見せるだけでなく、「ただいまご案内します」とか「コーヒーをお持ちしましょうか」とかいう一文を息を吸い込みながら言う。ものすごく苦しそうで(自分でもやってみたが、ホント苦しい)、見慣れていないこちらとしては、敬意を感じる以前に、「うひー、頼むから息してー」と思ってしまうのだけれど。

 むろん、こういう礼儀やあいさつなどは、必ずしも(いやほとんどの場合)合理性に基づいて決まるわけではない。息をかけない、という基本的な発想について合理的な解釈を加えることはできる。当初は病気の感染を防ぐ意味があったのだ、とかなんとか。それは他の礼儀でもそうだ。握手は、相手が武器を持っていないことを確認する手段だとか、ハグは相手が背中に武器を隠していないことを確かめるためにはじまったとか(この後者はいささか眉唾だと思うんだけどね)。

 でも、それがプロトコルになって、完全に形式化すると、やはりその文化に属さない人には異様か、ときに滑稽に見えるのも事実。欧米人は、日本人がやたらにおじぎをするのをおもしろがって冗談のネタにするし、タイなどのワーイ(手をあわせておじぎするやつ)もすごくおもしろがる。あれは最初にやられると、「いやそんな拝んでいただくほどの者ではありませぬ」と恐縮してしまうんだが、ただの挨拶なので向こうは普通にやっているだけなのだ。

 それはお互い様で、相原コージのマンガでも、大げさに声を上げてハグしあって背中をぽんぽん叩くアメリカ人の習性を利用して布団叩きをさせるとか、散々ネタにしている。

 そういうのをネタにするのはよくない、失礼だ、相手をバカにしている、といって怒る人もたまにいるんだが、ぼくはそうは思っていない。見慣れないものをが奇妙に見えるのは当然のことだ。そしてぼくは、真の文化的対等や差異を認め合うといった話は、そうした違和感をあえて抑え込んで何もないふりをすることではなく、お互いが相手のおかしく見えるところを平然と笑いものにしつつ、それが別に何ら意味をもたないという状態だと思うのだ。

 というわけで、これをうまくネタにできないものかと考えているうちに、エチオピアではや三週間。なんだかだんだんこっちも感化されて、気がつくと話の要所要所で大げさに息を吸い込むようになってしまっていて、帰ってすぐに妻に「息が苦しいの? かぜ?」と心配されてしまったんだが……



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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