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alc2010年04月号
マガジンアルク 2010/04

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 49 回

鉄道がもたらした日本の几帳面さ

月刊『マガジン・アルク』 2010/04号

要約:時間にルーズな国は多い。日本人は几帳面で、それが国民性だと思っている人は多いけれど、でも実は、電車の運行スケジュールを通じて強化されていった結果、いまの時間にうるさい日本人が明治以降に成立したのだった、と『遅刻の誕生』に書いてあった。


 開発援助の話をしていると、よく日本人とその現地の人々との比較論になる。だいたい出てくる議論は決まっている。日本人は古来から勤勉で手先が器用で熱心でまじめで几帳面で、それにひきかえここの連中はウダウダウダ。根本的な人間性からたたき直さないと、こいつら経済発展なんてできるわけないよー、というわけ。

 もちろんこういう議論をするのは日本人だけじゃない。ドイツ人も、アメリカ人も、みんなやる。ある国際会議のうちあげでこの手の話をいろんな国の連中とぎゃあぎゃあやっていたら、こともあろうにスペイン人が「おれたちはまじめで熱心で……」と言い始め、その場にいた他の国の連中が一斉に「どこが!」とツッコミを入れて大笑いになったのは楽しい思い出ではある。

 が、冗談で言っているうちはいいのだけれど、それが変なナショナリズムと結びついたりすると非常にうっとうしい。そしてもちろん、「日本人は古来から勤勉で……」なんていうのは大嘘だ。昔――それこそ安土桃山時代や江戸時代――の日本人がぜーんぜんまじめでも勤勉でもなかったのは、実はかなり詳細に記録されている。日本にきたキリスト教宣教師たちは詳細な手記を残しているけれど、結構とほほだ。「この日本人どもは、不真面目で仕事はさぼるし時間なんて無視するし、ショーグンもミカドも、なんでも冗談のネタにしてどうしようもない、こんな連中にありがたい神の教えをどうして伝えられましょうか」という具合。

 が、それがどこかで急にまじめになった。これは何なのか? その転換が起こったのはなぜ?

 最近、それをストレートに論じた本を読んだ。橋本&栗山編『遅刻の誕生』(三元社)という本だ。

 当然のことながら、それまでいい加減で時間にもルーズだった日本人が、几帳面で勤勉になるのは明治維新以後だ。そしてそれを必要とし、それを推進したのは当然ながら、産業化社会の進展だ。高価な機械を最高の稼働率で使うためには、みんなが一斉に時間通りきちんと働く必要がある。

 そしてその意識を人々に浸透させた何より大きなツールは、鉄道だった。スケジュール通りに運行される鉄道は、そのスケジュールにあわせて動かなくてはならないという人々の意識を造りだした。同時に、学校や工場での規律が次第に人々を、いまのまじめで勤勉な日本人に変えていき……

 これは大変おもしろい本だ。そして案外経済発展を実現するには、こういう途上国にも時間通りに運行される公共交通を入れる、なんてのが答えなのかもしれないな、と思う。前にも書いたけれど、インドのデリーには、日本の援助で地下鉄ができた。インド人なんて(いや途上国はたいがいそうだが)ちゃんと列を作って順番に待つとか、人に道を譲るとかいう意識はないに等しい。バスや鉄道では、ドアが開いたら降りる人がいようとお構いなしに、我先にドアに殺到するのがプロトコルだ。

 だがデリーの地下鉄では、各種乗車キャンペーンのおかげで、人は整然と列車を待ち、そして我先に乗り込もうとするジジイを、何とインド人の若者がたしなめて規律を守らせているという、インドでは信じられない光景が普通に展開されている! そしてこの地下鉄がもたらした意識変化は、じわじわとインドをも変えるだろう。

 まあそういう時間意識がいいことばかりでないのは言うまでもない。一分一秒の電車の遅れにぎゃあぎゃあと駅員さんを怒鳴りつけて悦にいっているバカなオヤジを見ると、変な時間遵守意識が人間を明らかにゆがめているのもわかるし、何がその人や国にとってよいのかは、いちがいには言えないのだけれど。細かい時間にこだわらないゆったりした生き方にも、たぶん良さはあるんだろう。というわけで、本稿の締め切りを遵守できなかったことも、編集部には是非とも大目多めに見ていただきたく候。ではまた来月。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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