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alc2010年01月号
マガジンアルク 2010/01

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 46 回

文化の役割とスーツのお値段

月刊『マガジン・アルク』 2010/01号

要約:『神話論理』にもあるように、人は自分を自然と区別するために各種文化的営為を行う。食事もそうだし衣服もしかり。たぶん現在は、スーツにいくらかけるか、なんてことにそういう文化があらわれるのかも。


 先日他界した構造人類学の創始者レヴィ=ストロースの大作『神話論理』は、食べ物とその料理についての本だった。食べ物は、ナマの魚や肉を食い、そこらの草や木の実をかじれるだけでも本来はかまわないはずだ。でも、人間はそれを敢えて料理する。

 それにはもちろん、実用的な意味もある。料理することで、そのままでは食えないものが食えるとか。でも神話を見ると、食べ物はそんな実用性をはるかに上回る意味を持つ。何をどう料理するかが、人間にとっては自然と文化、野蛮と人間とを区別する大きな意味を持つ行為となる。だからこそ、物の食べ方や調理方法には、実に多くのタブーや、意味がなさそうなルールがあれこれついてまわるのだ。そしてそれは、神話の中で実に大きな役割を果たしている。

 ぼくはかれの分析や理屈はあまり評価していないけれど(というととてもえらそうだけれど、一読者として『神話論理』を読んでもかれの主張が裏付けられているようには思えないのだ)、でもかれのこの根本的な直感は正しいんだろう。そしておそらく、衣服についても似たようなことが言えるんだろうと思う。

 衣服は単に毛皮や布に適当にくるまればいいというものではない。そこには機能的にいえば必ずしも本質的ではない、各種のルールがある。どんな服装をしているかは、人間を文化の中に位置づける。

 なぜそんなことを考えているかというと、先日仕事をいっしょにしているイギリス人と、酒を飲みながら話が服に及んだからだ。かれは、日本人の服装――特にビジネスマンのスーツ――が安っちいのはなぜだ、という話をしていた。

 人は見かけじゃないというのはよくきく話だが、そうではない、というのがかれの議論だ。自分の社会的な立場――地位、肩書き、稼ぎを含め――に見合った服装をするのは、自分がその地位や肩書きに見合った存在として自分を認識しているという証拠であり、つまりはそこで発生する責任を自分で引き受ける覚悟があるという決意表明でもあるんだ、と。安いスーツを着ているのは、「自分は肩書きほどの人物ではないからヘマをしても許して」という逃げ腰の表現なんだ、と。日本的な謙遜は美徳かもしれない。でもそれは往々にして、単なる責任逃れの言い訳に堕しているんじゃないか、と。

 これはある意味で、まさに衣服が人をどうやって文化や社会の中に位置づけるかという話だ。もちろん、この人が言っていた話に対する反例を挙げるのは簡単なことだ。だれそれは、質素は服装でも立派な人物だとか、逆に(このほうが多いが)身なりだけ立派な中身のない人物とかは、いくらでも挙げられる。でもかれの言うことにも、一理はあるとぼくは思うのだ。

 ではきくが、とぼくは訊いてみた。どのくらいのスーツを着ていればおまえは満足なんだ? その人の立場にふさわしい身なりとは?

 それは簡単だ。あくまで目安だが、おれはその人の一週間分の収入に相当するくらいの値段の服を着るべきだと思っている。

 うーん。もちろん、一週間分であるべき確固たる理由はない。が、ぼくはそれが結構いい指標だな、という気がしたのだった。一年は五十二週間ほどなので、年収の五十分の一くらい、月収の四分の一くらい。

 もちろん文化によってもこれは左右される。衣服を購入するのではなく、自分で作る人もいる。でも、その労働力を考えると、ぼくはだいたいこのくらいがあらゆる文化で衣服に対する支出の目安になっているんじゃないかとさえ思う。

 ちなみにぼくがそのとき着ていたのは、週の稼ぎの半分くらいしかしない安物のスーツではあったんだが……さて、あなたが着ている服は、いくらくらいだろう。そしてあなたにとって、自分の社会文化的な位置づけのために一週間分の支出を行うのは、高いだろうか、安いだろうか?



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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