『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 26 回
月刊『マガジン・アルク』 2008/05号
要約:来日したドイツ人の建築家が、日本の建物の間にあるネコも通れないほどの隙間は、自由の象徴であってすばらしい、というすごいう議論をしていた。うーむ、そういう考え方もあるのか。驚きました。でも、自由の実体的表現という発想はなんかヒントがありそう。
今回からちょっとお笑いを。前にも一回ネタにしたことだけれど、ここしばらく、ドイツの建築家や芸大の学生が日本にやってきて、あれこれ日本の見物をしてはその成果を自分の作品に取り入れようとしている。そしてやっぱゲージンともは、同じ日本を見ていても、毎度ぼくたちの気がつかないような変なことに感心してくれるのがおもしろいことであるよ。
今回、建築家のほうが感心してくれたのは、日本の家と家の間にある細い隙間だ。町を歩いていると、都市部ではびっちり家が建ち並んでいて、その間に人はおろかネコすら通れなさそうな隙間が開いているのを見かける。かれは、それが非常にユニークでいい、という。
さて、日本人の立場からすると、あれはよくないものだ。だって、無駄だもん。だれも使えない土地だ。ただでさえ狭い土地を、なぜそうやって無駄にしてりまうね。両隣の家をくっつけて長屋造にすれば、ちょっとは部屋も広く取れる。そして都市景観的にも、チマチマした思い思いの不揃いなちっこい家がたくさん並ぶよりも、水準を上げた大きめの長屋のほうがデザインもそろうし、かっこいいのに。
ちなみに、なぜそんな隙間ができるかというと、まず規制上、敷地境界線いっぱいまで家を建てちゃいけないという規制のせいと、そしてもう一つはそれぞれの地主・家主の事情というものがある。長屋にするなら、あたりの地主・家主が一斉に建て替えなきゃいけないけれど、人々のタイミングがそうそう合うもんじゃない。それに、そういう話をし始めると、ゴネるやつが必ず出てくる。そんなのを手間かけて調整するよりも、みんな好き勝手に自分の敷地の範囲内でだけ建てたほうがいい、ということになる。だからあの隙間は、都市づくりにおける合意形成の失敗のあらわれでもあるんだ。
ヨーロッパにいくと、一つの街区内の建物はみんなつながっている。ぼくたちはそれを見て、ヨーロッパは町並みが揃っている、みんなが自分勝手な自己主張をせず、ちゃんと公共的な価値を守るためにゆずりあうという高い意識のあらわれである、よって都市景観に対する意識が高い、と思うんだけれど(そして日本で都市の美しさがどうしたこうしたという論者はみんなそういう議論をするんだけれど)、その建築家に言わせると、それぞれの家が独立性を保っているのがよいんだと。そこにそれぞれの人の主張があり、自由が感じられるんだって。「のっぺりと同じデザインがつらなっていてもおもしろくないじゃないか。建物の間の隙間は無駄かもしれない。でもそれは、そのそれぞれの地主と建物の自由を確保するためのものなんだろう。この土地のない東京でそれだけの無駄を敢えて出すのは、その自由の持つ価値の表現でもあるじゃないか。その土地は、自由のための尊い犠牲なんだ!」
うーん、そ、そうくるかね、ドイツ人め。
もちろん、この人の言っていることは、かなりトンチンカンではある。だれもそんなすごいことを考えて、家の間にネコの通路にもならん隙間を空けているわけじゃない。いろんなエゴのぶつかりあいと手間暇との折り合いで、なんとなく残ってしまっただけだ。が、それは承知のうえで、ぼくはかれの言い分に何か魅力を感じてしまうのだ。トンチンカンとはいえ、かれの言い分には一理あるし、権利とか自由ってのは、往々にしてまさにそうした隙間みたいな存在ではあるのだ。うーん。これは景観というのが、単なる見た目のきれいさの話ではないということでもある。それが表現しているのは何なのか? これを考え始めると、ときどき見かける景観論争のがいかに皮相的かという話になるんだが、それについてはまたいずれ。