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alc2008年2月号
マガジンアルク 2008/02

『山形浩生の:世界を見るレッスン』 連載 23 回

スラム見物ツアーをめぐる複雑な気分

月刊『マガジン・アルク』 2008/02号

要約:南アフリカやケニアには、ヤバいスラムの見物ツアーというのがある。世界のバックパック的な観光のほとんどは、実は貧乏人見物なので、これ自体がいけないという気はないんだけれど、でもこうして露骨に見せ物にされると複雑な思いがある。いずれスラムが保存地区指定を受けたりなんてこともあるのかな。


 トルストイは『戦争と平和』の冒頭で、金持ちはどれも似たり寄ったりだが、貧乏人は実に様々だ、というようなことを書いている。いや、ひょっとしたらその逆だったかもしれない。が、いずれにしても現在、世界の金持ちは似てきつつある。

 金持ち、といっても別にビル・ゲイツやドバイの石油王たちの話じゃない。日本のぼくたちは、世界的に見れば金持ちの部類に入る。そしてその生活は、いまぼくのいるガーナの金持ち(といっても、電力会社の部長クラス)と大して変わらない。家を訪ねれば、そこにはテレビがあり、ビデオやDVDがあり、台所には冷蔵庫、居間には応接セットがあって云々。

 一方、貧乏人は様々だ。ここの貧乏人――地方村落の住民で、貧乏といっても飢え死にしそうな貧乏人ではないけれど――の生活は、日本の貧乏人――というのは世界的にはそこそこ金持ちだったりするが――やインドの貧乏人とはまったくちがう。乏しい資源で固有の自然環境にどう適応するか、という解は実に多様だ。樹木が豊富にあれば家は木造で四角いけれど、ここガーナのサバンナでは、土でできた丸い家が主体となる。そして世界をめぐる中で、見ておもしろいのはやっぱりこの貧乏人たちのほうだ。

 その意味で、特に途上国観光の多くは(完全な自然観光以外は)、金持ち(ぼくたち)が貧乏人を見物する、というものだ。モンゴルの遊牧民のゲル生活を味わいましょう、というのはつまり、そういう形態の貧乏を体験してみる、という話だ。ガーナ北部の集落を調査していると、一世帯千人というわけのわからん代物が出てくる。酋長とその奥さん方の親類一同がすべて「一世帯」に含まれていて、それが迷路のような――でもすべてつながった――一軒の「家」となったりしているのだ。そういうところで一晩二晩暮らすのはなかなかおもしろい。でもそれは「ああ、目先の変わった貧乏でおもしろいなあ」というものであって、「なんとすばらしく豊かな生活だ、おれもこんなところで暮らしたい」というものじゃない。

 が、表向きはそうは言わないのが通例ではあったのだが……最近になって特にアフリカで、まさに貧乏見物ツアーというのが出ている。南アフリカのヨハネスブルグでは、市外の広大なスラム街を案内してくれる貧困ツアーがある。「生きては帰ってこれます」というのがうたい文句だ。ケニアでも、ナイロビのスラムツアーがある。

 ぼくはこういうのを見て、ちょっとうろたえてしまう。実質的には貧乏に興味があっても、それを表だって口には出さないのが慎みってもんじゃなかったっけ。貧乏を露骨に見せ物にするというのは、どうなんだろう?

 だがその一方で、これをやっている人たちは結構真面目だ。貧困の実態を見せることは、それに対する認識を高める有益な役割を果たすのだ、と。うーん。確かにそうかもしれないんだけれど、どうなのかなあ。

 それとは関係なく、貧困はだんだんと消えつつある。こうした動きは、その一つの影響でもあるはずだ。すでにご存じの通り、多くの伝統的村落だの民族舞踊だのはすでに明治村のように観光化されていて、そこの人たちは、昼間の観光客がくる間だけ、ちょっとそういう衣装をきて演技をしてみせているだけだ。

 それと同じように、やがて本当の貧困がだんだんなくなるにつれて、あちこちでスラム保存地区みたいなのができて、昔の人々の伝説的な「貧困」という生き様を保存しようとする運動が出てくるんじゃないか。貧乏人見せ物化も、たぶんその前兆ではあって、いいことにちがいないんだが……やっぱりぼくはちょっと割り切れないものを感じているのだ。



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YAMAGATA Hiroo <hiyori13@alum.mit.edu>
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